三光院跡仁王像

2016.05.14

霧島市隼人町朝日




日秀神社
「日秀神社は、江戸時代までは三光院という寺院の跡でしたが、明治二(1869)年の廃仏毀釈によって壊されました。その後、日秀上人の徳を偲んで建立されました。
 日秀上人は加賀国の人で、出家し琉球へ渡った後、坊津を経て宮内に来ました。大永七(1527)年、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)が焼失した際、その再建に尽力し、三光院を建て、仏教の普及につとめました。境内には、上人の手彫りの石仏が十数体残っています。
 島津義久が豊後国大友氏と戦う際に戦勝を祈願して、生きながら石室に入り、三年後に亡くなっています。」

霧島市教育委員会

三光院墓碑群 市指定文化財
「三光院は日秀上人という真言宗のお坊さんによって室町時代の終わりごろ建てられたと推定されるお寺でしたが、明治のはじめの廃仏毀釈により無くなってしまいました。
、その後、日秀上人をご祭神として寺跡に日秀神社が建てられました。この神社の境内には今なお三光院時代の遺物が数多く残っており、神社左横には阿弥陀堂が立っています。その中には日秀上人の遺骨が収められています。
 また、密教の金剛界・胎蔵界両界の仏たちを表す梵字が四面に彫りこまれた、大通智勝如来信仰を示す元亀三年(1571)の方形の石塔婆も堂内にあります。
 阿弥陀堂の左後ろには、五輪塔や月輪塔などによる歴代住職等の貴重な墓碑もたくさんあります。また神社と阿弥陀堂の間には、板石に彫られた聖観音、如意輪観音、千手観音、十一面観音、馬頭観音、準提観音等の仏像彫刻が並んでいます。『三国名勝図絵』によれば、これは元は参道両脇に並べられていたもので、日秀上人の彫ったものということです。」

霧島市教育委員会
日秀神社の鳥居

階段を上ると

社殿

社殿と阿弥陀堂の間には、日秀上人の彫ったといわれる仏像彫刻

奥には仁王像

左の一体

右の一体

背面

阿弥陀堂の左後ろには、五輪塔や月輪塔などによる歴代住職等の墓碑