蛭児神社

2015.06.07

霧島市隼人町内




なげきの杜と蛭児神社
「蛭児神社の創建はさだかではありませんが、神代の頃ともいわれています。大隅国二宮で、社殿は昭和五年に改築しましたが古くなったため、平成二十三年七月に新たに造営しました。
 祭神の蛭児尊は、イザナギ・イザナミの二神の間に生まれた神様で、漁業、航海、商売の神として信仰されています。言い伝えによりますと、二神は蛭児神を大変かわいがっていましたが、3歳になっても足腰が立たず、二神は嘆いて高天原から天磐楠船に乗せて流しました。そして、流れ着いた所がこの地で、天磐楠船から不思議なことに枝や葉が出て成長し大木になりました。その楠の実が落ちてなげきの杜一帯に繁茂しました。
 しかし、歳月が経ち楠は朽ち果て空洞を生じ、根株のみとなりました。今もその切り株が」『神代の楠』として残っています。現在の楠の神木は享保十三(一七二八)年、国分地頭樺山主計久初が植え継いだものと言われています。
 また、この辺りは『なげきの杜』として古くから歌に詠まれています。」
平成26年2月
霧島市教育委員会
蛭児神社に立ち寄りました

神代の楠
「古事記・日本書紀の神話にイザナギノミコト(男神)イザナミノミコト(女神)が結婚する話があります。
 二人の最初の子どもは、三歳になっても足腰が立たない蛭(ひる)のような手どもであったため、両親はその子をヒルコノミコトと名付け、天の岩楠船に乗せて、天上から流し捨てた。天の岩楠船は、現在の場所に流れ着き、根付いてこのあたりのクスの森(ナゲキノ森)となったと言い伝えられています。
 この岩楠船から生まれたという楠の枯れた木株の絵図が江戸時代の三国名勝図会(天保十四年1843)に載っています。ここの枯れた木株は、絵図の木株にあたると思われます。
 この木株は『神代の楠』と呼ばれ尊ばれてきました。」

西郷どんの宿について
「維新の英雄、南洲西郷隆盛が、狩りと温泉を好んだことは、人々によく知られています。
ここ隼人町の日当山温泉は、南洲翁が明治維新十年の間しばしば訪れた所として、また世人のあまねく知るところです。
 翁が好んで訪れた理由については温泉の性質の良さもさることながら日当山の自然風景の雄大さを好まれました。
 前に天孫降臨の霊峰高千穂を仰ぎ、うしろに火を吐く桜島の雄姿を眺めながら、南洲翁は日当山附近の山野で狩りに汗し、また天降川の川瀬でアユ採りに興じ、その疲れを温泉の湯にいやしたのでしょう。
 その時、南洲翁が、宿代わりに宿泊されたのが、元湯(今の高郷どん湯)の前にあった龍宝伝ヱ門宅でありました。
 その後、南洲翁ゆかりの宿として大切に守られて来ましたが、、百年余り後の今は、傷み甚しくなったのでこの地に再建して、後世に残すことになりました。
 偉人西郷にかかわる歴史的遺産として、いつまでも大事に保存してゆきたいものです。」

宮内原用水三百年
「宮内原用水は、今から三百年前、正徳元年(一七一一)に工事が始まりました。水天渕の取水口から浜之市の田んぼまでおよそ十二キロメートルを五ヶ年かかり水路を通し、日当山・宮内原・浜之市・小野・野久美田まで広く百三十六へクタールの田んぼに水を濯ぐことができるようになりました。
 用水を通すのに多くの困難を乗り越えました。取水口の水天渕の川岸は岩山で、大岩を割ったり運んだり、溝を削り掘ったりしました。また長短十ヶ所の隧道も通しました。川の下に用水を潜らせ通したところもあります。工事予定の二年は五年に延び、今みたいに強力な機械のない時代に工夫を重ね困難を乗り越え造られて行きました。工事を中心になり進めたのは当時の郡奉行、汾陽盛常という人でした。隼人・国分地域の多くの人が工事にたずさわり。またほかの地域の人々の力も得て完成されました。
 水天渕の記念碑には『水や水やよく田の間をひたしそそいでくれ、年永く安楽たれや』と水神を祝い歌ったとあります。郷土の先人方が汗して造ったこの用水遺産を私たちも守り、『年永く安楽たれ』と願い、次世代へ継承していかなければなりません。」
宮内原用水三百年記念実行委貝会
宮内原土地改良区


入口の大楠

鳥居をくぐり

社殿