大安寺の仁王像

2016.05.14

霧島市福山町福山




大安寺の五輪塔
「大安寺跡門前に建つこの五輪塔は、藩政時代の福山地頭『種子島十左衛門』の供養塔と思われる。種子島十左衛門は、正徳四年(1714)から享保十一年(1726)の間、十二代福山地頭として在任する。郷内の掌握に勤め藩政に大きく貢献した人と伝えられる。
 晩年、十左衛門は、種子島家内騒動に巻き込まれ国老職を辞し、親交のある福山の平原家を頼った。十左衛門を師と仰ぐ平原家は、無言の約束で十左衛門を匿い、代々位牌と供養塔を守り続けてきた。
 十左衛門は、六十三歳の時、北条の姓を賜り、後年は『北条十左衛門時守』と名乗る。
 この五輪塔には十左衛門の若い時の名前、『対馬守』の刻銘が人目を避けるように刻まれている。」

霧島市教育委員会 平成十九年十二月建立

卵塔群 霧島市指定文化財(史跡) 昭和五十年三月三十一日指定
「卵塔群は、島津忠将の菩提寺『大安寺(曽洞宗)』の歴代僧の墓石群で、天文元年(1532)六月十二日、勝厳祖憧和尚が高山邑(高山町)に開山し、その後、第二世包山樹心和尚が福山町大廻に移したものである。
 永禄四年(1561)七月仁田尾城(廻城)の島津氏と肝付氏の攻防戦において忠将が討死した後、今の地に寺を移し位牌を安置した。忠将の法号『大安』の二字を寺号とし、山号を永奉と改め、忠将と共に討死した従臣五十七名の位牌も安置して冥福を祈る寺とした。
 寺は、寛政九年(1797)大火にあって消失する。やがて再建されたが、明治初年の廃仏毀釈により廃寺となった。
 現在、包山樹心和尚以来文政五年(1822)の十八代和尚までの墓石が並んでいる。」

平成二十二年九月 霧島市教育委員会
福山小学校跡の横を山手へ

標柱が建っています

途中に五輪塔

その先に標柱

破損した仁王像

左、上半身

右、下半身

山道を登ると

墓塔群、さらに上に卵塔群があるようです
以上 2016.05.14撮影


約1年ぶりの訪問

下の段の二体

上の段には腕を含む上半身
以上 2017.04.16撮影