山ヶ野金山 霧島市横川町 |
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「本山は寛永17年(1640)宮之城領主島津久通により発見された。藩はすぐ幕府の許可を得て採掘にかかった。藩内外から多数の人々が集められた。本山は地表に金が凝集していたといわれる。幕府はその産金量の余りに多きに驚き、2年余にして金山の停止を命じてきた。困った藩は再三許可を願い出たが許されず、13年間明暦2年(1656)漸く採掘を許可した。金山の西海が始まった15の鉱山所、36の町、人口12,000人と古文書は伝えている。田町に九州三大遊郭の一つが出来たのもその頃である。 然し始めの乱獲や地表の金もだんだん少なくなり、採金にも技術を要する様になったので、金の先進地大分の金山より多数のの技術者が呼ばれた。然し元禄(1688)以後はとみに産金量は減じていったが、明治迄1年も休山する事なく藩財政を潤してきた。明治10年、島津家では鉱山の振興をはかる為、フランス人を呼び谷頭に精錬所を建設、蒸気をもって杵を運転、川下に青化精錬所を設け共に操業を始めたが、いろいろ困難な問題が生じ思わしくいかず、遂にフランス人を解雇するに至った。その後は従来の方法で島津氏の直営と自稼請負業を併用して行なわれた。水車が普及しだしたのは明治20年以降で、明治33年蒲生仙氏鉱業館長に就任。自稼法を大いに奨励したので本山は大いに賑わった。その最盛期、水車数302台と記録されている、然し明治40年永野に電力による一大製錬所が完成、大方の自稼者達も此処に吸収されその後自稼業も廃止されたので、山ケ野は全く火の消えた様に淋しくなった。」 山ケ野区会 |
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刑所(牢屋)跡 「金山で罪をおかした者が囚えられていた牢屋のあった処。元禄時代(1688)江戸の文人都の錦(宍戸鉄舟)も入れられていた。彼は金山とは関係なかったが、江戸で無宿浪人として捕らえられ薩摩に流されたのだが、他に適当な牢屋がなかったので、此処につれて来られたのであろう。 彼の此処から出した牢訴状は当時有名になった。」 山ケ野区会 |
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青化製錬所跡 「フランス人鉱山技師ポール・オジェが初めて本山に来た時、濁って流れる川を見て「あ、金はみんな流れている」と言ったという。谷頭に洋式製錬所が出来た時、同時に此処に出来、青化製錬を行なった。普通一本杉青化製錬所と言った。谷頭の工場から板枠の溝を作り此処迄金泥を運んだのである。採金後の滓(かす)泥は川向かいに山の様に積まれていたが、整理されて今は田圃になっている。」 山ケ野区会 |
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田町遊郭跡 「門司と長崎についで出来た遊郭で、九州三大遊郭といわれた。延宝七年(1679)藤本箕山の著した日本色道大鑑には、その内容と絵図面が出ており(箕山自身も来山している)総囲いの中に六軒の遊女屋がある。そしてその遊女屋の屋号にも記されている。入口と出口は天神部落(その頃は大黒町といった)の方にあった。寛文年間(1661)の頃出来たと思われるが、永くはなかったらしい。今、明治に建てたらしい墓石型の稲荷様が残っている。」 山ケ野区会 |
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米蔵跡 |
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恵比須堂 |
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金山口屋(関所)跡 「金山萬覚に長野より二里七丁(8キロ60米)柵を結ぶとあるので開発と同時に設けられたものと思われる。山ヶ野東西二ケ所、長野一ケ所とある。東の方は番所といって今も地名で残っている。無手形の者の入山、近の密売、キリシタン等厳しく取り締まった。現県道に通ずる道はこれが本道で下の道は明治期谷頭に精錬所が出来る時、機械を運ぶ為に作られたのでシンミチという。下に続く道を口屋道といった。」 山ケ野区会 |