梅北神社の由来
「祭神 梅北宮内左衛門尉国兼
山田の地頭
国兼は弘治三年(1557)蒲生の松坂城落城後山田の地頭として一帯を治め、北山には下城・中城を築き防備した。23年間この地を支配したが天正八年(1580)伊佐郡湯之の尾の地頭に任ぜられこの地を去った。
豊臣秀吉への抵抗
天下統一した秀吉は天正十五年(1587)島津征伐を起こした。藩主義久、弟義弘、歳久は抵抗したが20万の大軍についに屈し、義久は川内の泰平寺で降伏した。文禄元年(1592)朝鮮出兵の命により国兼も従軍することになり肥前の平戸に到着した。ここに至り先年の恨みをはらそうと秀吉暗殺を企て、肥後の佐敷城で渡海の舟待ちの薩摩衆を味方にし、計画は成功したかに思えた。しかしその夜裏切りにあい暗殺され無念に終わった。この事件で生き残った七人の家臣によって北山の夫人に知らされた。七人の使者は七ツ島において切腹し国兼に殉じた。宮之城主歳久と共に秀吉へ最後まで抵抗した国兼であった。」
郷土誌より |