4,088 浄喜寺門前橋
2009.03.08
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行橋市今井
橋長:2.6m
橋幅:3.8m
単径間桁橋
架設:文久年間
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浄喜寺の由緒
「当寺は福岡県行橋市大字今井一八〇二番地にある浄土真宗大谷派(東本願寺)の直末寺で、守田山・雲龍院・浄喜寺と呼んでいる。
村上天皇(第六十二代、925〜967)の第六皇子昌平親王の孫・村上良成は、豊前国を領していたが、本願寺の蓮如上人の直弟子となって得度し、慶善と称した。その時に蓮如上人自筆の『浄喜寺』という寺号を授かった。それで、明応四年(1495)九月二十八日に慶善が浄喜寺を開基した。
降って、第三世良慶は、軍学、武術にも秀でていた。たまたま、石山合戦(現在の大阪城の位置)や、紀州の鷺ヶ森合戦で抜群の軍功を樹て、本願寺教如上人を危機から救出したので、上人からは『良成はわが命の恩人なり』との賞詞を賜わり、佩刀(三条小鍛冶の名刀)を授与された。良慶には、小倉藩主細川忠興が帰依し、寺領として三百石を寄進されたし、小倉城の築城の際には総監督の大役を仰せ付かったほどである。
小笠原氏が小倉藩主となっても、浄喜寺へ寄進は続いた。中国毛利氏の娘が初代・二代住職の嫁に来寺、小笠原第三代藩主の娘が当寺に嫁したこともあり、家老・宮本伊織(剣聖といわれた宮本武蔵の嗣子)の娘も当寺に嫁した。また、当寺歴代住職の中には、水戸(徳川御三家の一)藩主の実弟が二代つづいて御養子来寺した者もある。このように重厚な輝かしい歴史を持った巨刹である。
開基以来、当寺は真宗の九州最大拠点とされ、教勢拡大に果たした功績は測り知れないものがある。
天保九年(1838)には配下末寺、末庵は約100ヶ寺であった。現在の本堂は、第十四世良雄が二十数年の歳月をかけて、文化十四年(1817)に再建したものである。」 |
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由緒ある浄喜寺というお寺でした
梅の花がきれいです
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梵鐘
県指定有形文化財
「この梵鐘は室町時代の応永28年(1421)、彦山霊仙寺大講堂の洪鐘として、豊前今居金屋で鋳造されたものである。しかし明治維新の際、神仏分離令により霊仙寺がなくなったため、梵鐘は生まれ故郷ゆかりの浄喜寺に帰ってきたと伝えられている。
銘文によると、作者は今居(現在の今井)の鋳物師大工左衛門尉藤原安氏であり、『作料助成』とみえることから、梵鐘の製作費用は安氏が彦山権現に寄進したものと思われる。
この地に残る金屋の地名は、鋳物業を営む職人の集落があったことの名残であろう。
今井の鋳物師が活躍したのは15世紀のことで、ここで鋳造された製品は北部九州から山口県にまで及んでいる。その後、この地の鋳物師は小倉城下の鋳物師町に移っていったといわれる。
この梵鐘は、今井鋳物師の現存する数少ない遺品として貴重である。」
行橋市教育委員会
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駐車場から歩くとまず鐘楼があります
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念のため山門まで確認に行くと橋が見えました
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正面
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側面
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親柱
文久年間
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下部 |