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金剛院棚倉稲荷神社参道橋

2007.05.06


柳川市京町

橋長:2.5m
橋幅:3.3m
単径間桁橋





金剛院棚倉稲荷神社由来
「柳川市京町3丁目の東方に、往時稲荷山観音寺金剛院有、開山は、紀州熊野十ニ社別當修験の本源正覚院僧正即傳代二子金剛院密乗といふ。此金剛院は始め観音寺と言ひ、其子信誉に至り寺は、三宝院御門末にして柳川領内の触頭たり、寛永15年藩主宗茂公本院を建立せられ、其敷地内に稲荷金比羅二神並に聚幸神を奉祀す、末社秋葉弁財天二社及地蔵堂あり、このため稲荷社御供料として米三十俵を寄進有り、寛政の頃十三俵となり秋作初穂として分米三俵供せり、金比羅聚幸神に対して別に相当の寄進有、毎年初午稲荷祭3月20日の金比羅祭には、寺社奉行藩主在城中一回必ず恒例として、参拝せらる謹んで稲荷社縁起を案するに、藩祖道雪公此明神を尊崇し誓って護軍神とせり、永禄8年5月公が戦に臨みし時、夜々白狐燃火の瑞を示し、遂に大捷を奉せり、天正9年秋月種実と戦しとき、白狐戦陣に出陣して、我勝を得たり文禄2年碧蹄館の役には、明神の庇護ありて、宗茂公大勝し大に国威を宣揚せり、慶長5年秋9月公大津城を攻め落とし、其の兵をひきいて、柳川に帰る時夜筑後川に渡るべき船なし、然るに突如、其の場に、小女顕れ川下に導きたれば船あり、全軍を渡し、然る後に白狐現れて消へ失せり、公の夫人閏千代姫肥後に有しとき、夫人一夜夢に白髪の老翁枕頭に顕れ語りて日く、姫の我を信する事篤ければ常に其身辺を守れり、姫を去りて他に行くを得ざるも、其良人宗茂を如何にせむやと夫人これを異とし、翌日小野和泉鎮幸を招き之を告ぐ、和泉日く臣も同様の夢を見し事を告ぐよって夫人心に期する処有、斎戒沐浴し明神に誓って日く、妾既に此世に望みなし、宜しく妾が身辺を捨てて良人を庇護し、其運を開き再び世に立たしめよ、よって明神夫人仮寓を去る慶長7年夫人逝去す35也、宗茂公浪士となり肥後を出て、京師に入り数年後棚倉一万石に付せられしが、此間常に明神の庇護有、此棚倉に一社を建立し、之を奉祀せらる、元和6年公再び柳川城主となり赴任せらるるや、城内内苑に一社を建立更に、二代忠茂公金剛院に奉遷す、後世棚倉稲荷と称す、寛永14年島原の乱及び寛文10年長崎事件等明神の庇護有り、以後藩主参勤の時或は、事変毎に明神の庇護を蒙むる事少なからず、宗茂、忠茂公は自筆の諱及び花押を社に捧げ、宗茂公夫人は鏡一面を神体として寄進ありしと云ふ、寛政4年3月瀬高町(現京町)大火災起り社殿を烏有に帰す、依て仮殿を造営社殿の改築遷延し、遂に明治の維新に至れり、大正中期大改築を行い現在に至れり、昭和32年7月5日京町3丁目の信徒一同に因って、本殿並に附属建設物の改築を行ふ、平成5年10月信徒一同社殿 修復並びに鳥居建立す。」

平成5年10月1日
京町3丁目町内会
神社側から

側面、県道702号線から

側面

下部

上部