石橋巡り
(2004年3月14日)

3.道中で見たもの
(永仁の碑・旧岩瀬橋・石阿弥陀の遺跡・新田場の田の神・永久井野のかくれ念仏洞・韓国岳)



1.高岡町〜小林市

2.牧園町






永仁の碑 小林市
市指定有形文化財


 永仁の碑は、旧岩瀬橋の西渡り口にあり、永仁元(1293)年の文字があるところからそう呼ばれています。宮崎県内で最も古い碑の一つです。
 この高さ95cm、幅30cmの碑には、中央上の梵字(大日如来)の下に「永仁元年」、右下に「橋勧進」、左に「除蛮災」の字が彫られています。
 文永11(1274)年と弘安4(1281)年の二回に渡って、元の大軍が九州北部に来攻しました。後に「元寇」と呼ばれたこの襲来は、当時の人々に大きな衝撃を与えました。
 鎌倉幕府は弘安4年以後20年間、全国に戒厳令をしいて外敵の侵攻に備えました。永仁元年は弘安の役から12年目に当たります。
 永仁の碑は、岩瀬渡の交通難所が画期的に改善されたことを記念するとともに、恐ろしい外敵の侵攻が再び起こらないことを祈念して建てられたものと思われます。
小林市教育委員会



旧 岩瀬橋 小林市岩瀬

県内最初の鉄橋(土木文化財)









石阿弥陀の遺跡 小林市

 馬がその場所にくると、急に動かなくなるので不思議に思って、土を掘りかえしてみると土中からナモアミダブツと刻まれた石が出てきました。
 今でも地域の人達によって大切に保存されております。
新田場の田の神 小林市
市指定有形文化財


建立年月日 享保5年2月9日
由来
 田の神は、開田(新しく田をつくること)の記念と豊作をいのってつくられた石像で、むかし薩摩藩だったところだけにある。全国でも珍しいものである。
 田の神には神像(神官)型、仏像(地蔵)型、田の神舞(農民)型、文字碑(自然石)型などがありますが、新田場の田の神は烏帽子をつけた神像型で、宮崎県内でもっとも古い田の神のひとつです。
 像の後ろに「享保五寅夭 二月初九日 奉造立田御神御体 施主 本田権兵衛」の銘文がきざまれています。享保五(1720)年は江戸時代の中ごろで、全国各地で開田がさかんにおこなわれていました。
 小林市は神像型田の神の発祥の地といわれ、市内にのこっている田の神の約半数は神像型です。これらは霧島信仰の影響を受けてつくられたものと思われます。
小林市教育委員会



永久井野のかくれ念仏洞 小林市永久井野
かくれ念仏渦について
 浄土真宗本願寺派は、鎌倉時代の開教で、一向宗または真宗ともいわれております。
 この教えの根底には、平等の思想が流れており、一般庶民も救われるというので民衆の間に広がりまLた。
 加賀の国では、一向宗徒が大名の富樫氏を倒し、一向宗の自治地区がうちたてられ、百年も続きました。また戦国時代には、織田信長も一向宗徒の制圧に手を焼き、のちには顕如上人と和解をしております。当地方に真宗がひろまったのは、500年以前であったと思われます。島津藩では、慶長2年(1597
年)の朝鮮出兵にあたり、義弘は、「真宗は以前より禁じられていたが、今後とも拝んではいけない」というおふれを出しています。
 禁止の理由はいろいろあげられていますが、本心は平等思想と団結を恐れたものと思われます。本願寺史によりますと、寛永11年(1634年)に山之口町の武士の者が処分を受け、屋敷を没収され、百姓にさせられた記録を始め、明治9年の解禁までの264年間に入牢、拷問、死罪などを課せられた記録が残っております。特に幕末にはひどかったようです。信者達はこうした厳しい弾圧にも屈せず、洞穴の中でひそかに仏様を拝んでおりました。この洞穴も、永久井野、黒仁田、永久津の信者達が集まって南無阿弥陀仏の六字の名号を唱えながら生きるための安心を得た由緒深い所であります。
全長約18m 最大幅約6m
平成2年11月記 永久井野地区かくれ念仏洞保存会




椿と高千穂の峰
麦畑の向こうに見える高千穂の峰
韓国岳と新燃岳がこんなに近づいてきました
鹿が、こっちじゃなくてあっちを向いています
牧園町、お茶畑から高千穂の峰が見えます
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