石橋巡り
(2004年5月9日)

3.道中で見たもの



1.日向市


2.北川町〜清川村〜緒方町



北川町の万地橋の北詰めに4基の石碑、石像が建っています。
案内板はありませんが、調べてみると、かなりの年代物です。





推測:右から
猿田彦大神(道祖神)、三宝荒神(かまどの神様)、庚申塚、薬師様





一番右側のものです。

側面には「天保十三年」
前面には「猿田彦大神」
と刻んであります。道祖神です。

天保十三年は西暦1843年です

さるたひこのかみ
天孫降臨のとき、皇孫迩々芸命(ににぎのみこと)を案内した時の神様だそうです。
鼻は長く、背は高く、口は輝き、目は八咫鏡(やたのかがみ)のようにてりかがやいていたと言う。





右から二番目のものです。
側面には「文化八年  十月吉日」と刻んであります。
文化八年は西暦1812年です



この角度から見ると、上部の梵字も浮かび上がります。

一番左の石碑の梵字と同じ「ウン」とも読めます。
「ウン」であれば三面八臂の降三世明王ですが、顔が3つもあるようには見えませんし、手が8本あるようには見えません。

又は三宝荒神、かまどの神様?









右から三番目のものです。

側面には「明和五・・八月吉日」
前面には庚申・・・」と刻んでありますので、庚申塚でしょう。
明和五年は西暦1769年です





一番左のものです。

側面には「安●五年 十月吉日」と刻んであります。
●が「政」ならば安政五年西暦1859年
●が「永」ならば安永五年西暦1777年です。

また、上部には赤丸で囲んだ梵字が見えます。
間違いなく「ウン」の文字、阿閃如来みたいです。
阿閃如来は薬師如来と同じという考え方もあるそうです。



詳細は不明ですが、年代物です。
ご存知の方は情報を頂けましたら幸いです。





ヒルザキツキミソウ

北川町、山下橋を探す途中の道端に咲いていました。




石幢
県指定有形文化財 
清川村大字宇田枝字馬場

 「この石幢は、追善供養のために建立されたもので、基礎幢身、中台、笠、請花、何れも平面四角、基礎二重になっており、多数の小孔がある。笠は内くりあり、軒先は二重、スイがついている。
 軒先多少破損している。石幢下に一字一石を埋めてある。」

清川村教育委員会




宝生寺
村指定史跡

 「宝生寺は、近衛天皇の久安年中鎮西八郎源為朝公がはじめてこの地に建立したと言われている。
 現在、本堂仏壇の向って右に安置されている等身大の十一面観音坐像が、俗に「為朝公背負い仏」と称されて、当初の本尊であったという。宇佐八幡の化身で源氏累代の鎮守仏であって、国家鎮護、武運長久を祈って祀ったという。
 その後、宝徳二年 豊後の大守鎮西探題大友出羽守親隆の祈願によって再建されるまでは相当に荒廃していたらしい。国守の権威をもって再建された宝生寺は、諸堂完備並びに塔頭六箇院造立とある。寺領として宇田枝名百貫文を寄附せられ、庫下豊富とあるから実に豊かな大寺であって、平常の僧衆は百指を数えたという。古荘梅谷翁の八景詩序には、宝生寺を以って大友出羽守親隆公の香華院となす、とある。」

清川村教育委員会





まちの鍛冶屋
緒方町

 「この鍛冶屋は、昭和21年、時の町長により招かれた河野八之助氏によって興され、彼が亡くなった平成9年にその51年間の歴史を閉じた。
 彼は開工後、町民の信頼を得ていろんなものの製作を依頼されるようになる。
 井路に架かっていた水車(今では水車のほとんどが無くなってしまったのは残念だが)の多くは、彼の手によるものである「割り干し大根」の割り器、里芋を掘りやすい形にした鋤などもそうであり、まさにこの鍛冶屋は緒方の農業を側面から支えてきたといってもよいだろう。
 生前彼は「わしゃあ看板なんか作らんで。仕事が看板じゃ」と言い、特に看板らしいものは何一つ揚げなかったが、作品に刻まれたマルハチ印が、彼の職人としてのプライドを表している。
 この井路沿いは、この鍛冶屋や桶屋、畳屋、パン屋、そして造り酒屋などが軒を並べ、まさに「職人通り」と呼べるほど活気に溢れていた時代があった。
 いまは鉄を打つ音も聞こえず、また木を削る風景も見られないが、当時のままこの工房の前に立つと、井路の距離感が生む独特の雰囲気も加わり、私達に職人通りだった頃の喧騒を呼び起こさせてくれるようである。」





左手奥に、岩窟がある。
岩窟内は湿気が多く、靄がかかった状態で、フラッシュを使ったら光が乱反射して何も写らなかった。



瑞光庵磨崖仏

 「瑞光庵は、緒方村史に「古老の伝説にも詳ならず」と記述されており、由来は不詳である。本尊は、千手観音、阿弥陀如来、薬師如来で、伝承によると観音は何度も盗難に遭いかけたが、菩薩の威徳により盗人は走り去ることができず盗難を免れたという。
 瑞光庵の裏側の岩窟は、幅6m、奥行2m、高さ2mで、奥壁には不動明王が彫り込まれている。岩窟の入り口には、方形の羨道部分があるが、当初から磨崖仏を彫り込むために造られたかどうかは判然としない。大野川流域には、犬飼、普光寺、軸丸、落水、大化切小野谷、不動ケ淵など不動明王の磨崖仏が多い。犬飼、普光寺磨崖仏以外、ほとんどが近世の作であるが、この中でも瑞光庵磨崖仏は、表情や下半身の造顕の手法をみると極めて近世の作であると考えられている。岩窟内に彫り込まれた特異な形態が珍しいため、人々の関心は高く参拝者も多い。
 現在も、越生区で不動様祭が行なわれており、大野川流域の不動信仰を考えるうえで貴重な資料である。」