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| 国道10号線のドライブインから桜島を望む 少し春霞 |
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![]() 国分市 国道10号線沿い |
| 保食神(ウケモチノカミ) 明治9年9月20日と刻んであります 別称:大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ) 女の神様。 伊邪那岐命と伊邪那美命の子 五穀の神、養蚕の起源神 |
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史跡 隼人塚 「指定理由 「古事記」「日本書紀」「風土記」等に記載されている古代南九州の住民クマソ・隼人族の反乱(隼人族の反乱は養老4年・西暦720年)にちなんだ史跡として指定された。 建立目的 反乱の時殺されたクマソ・隼人の霊が崇りをなしたので、その供養のために隼人塚が建立されたと伝えられる。ただし建立の目的をはっきり書いた文献・考古資料などは発見されていない。 遺跡の時代 平安時代。 隼人塚の造立年代は、大隅国分寺の石塔(康治元年・西暦1142年)との比較から、ほぼ平安時代後期と見られている。 石塔の塔身4面に彫られた仏像や笠石の造りに平安時代の様式をうかがうことができる。隼人族が反乱を起こした奈良時代の造立を裏付ける物は見当たらない。 遺跡の特徴 1.石塔が3基並んで建っていること 2.各層とも塔身軸部四方に仏像が彫られていること 3.四天王像が四方に立ち石塔3基を取り囲んでいること」 |
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鹿児島神宮境内の大楠 建久年植樹 神木 大楠 樹齢 凡そ800年 |
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| 国道220号線、福山町から見た、鹿児島湾に浮かぶ桜島 |
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歌丸の六地蔵 輝北町指定有形文化財 「歌丸の六地蔵は、表に「干時 寛保葵亥 寛保三年=1743年」、裏面には「奉建立庚申供養 青面金剛」、塔身の六面には、それぞれ仏像と梵字が刻まれており、当時の庚申講衆が地域の守り神として建てられたものであります。 当時、庚申講衆によって建てられたことが判る貴重な文化遺産です。」 輝北町教育委員会 |
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宮元の古石塔群 輝北町 |
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無縫塔 「無縫塔とは、お寺の住職(お坊さん)の墓をいいますが、卵塔ともいう卵形の塔身をもち笠石がないのが特徴です。 ここの無縫塔には「開山洞鳳龍大和尚」の刻銘があり、坂宮にありました勅願寺一乗院末寺で寶円山丸山寺の御開山和尚の墓といわれており、字満園屋敷(福満家宅地の裏山)にあったのを現在地に移したものです。 鎌倉時代の禅家によって輸入された形式で禅寺の開山や高僧の墓塔として発達しました。鎌倉中期に始まり、台座が複雑で頭部の開いた塔身が「卵形」のものと、鎌倉後期から室町時代に盛んに作られた台座が低く構造が簡単で当身が「長卵形」の二種類があります。」 輝北町教育委員会 |
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| 広津田 田の神像 大隅町 由来 製作時期 1847年頃 使用石名 やや荒い安山岩質 高さ 140cm 肩幅 70cm 顔の長さ 50cm メシゲの長さ 44cm スリコギの長さ 44cm 特徴 ・丸彫の田の神像では最大級である ・大隅地方特有の神職型座像である 広津田集落公民館 |
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今町一里塚 国指定史跡 都城市 「一里塚は江戸時代の街道一里(約4Km)ごとに設けられた道しるべである。これは17世紀の初めに徳川幕府が、江戸日本橋を起点に東海道などの主街道に築いたのが始まりといわれる。薩摩藩では17世紀の前半に設けられたようである。 今町の一里塚は、今町街道と呼ばれた都城・末吉・松山・志布志を結ぶ道筋(現国道269号線)にある。この街道は上使(幕府巡検使)一行の、薩摩藩から飫肥藩への通り道にもなっており、昭和10年頃まで緑の松並木が続く美しい光景をかもしだしていた。その街道の両側に土盛のように残されていたこの塚が、国の指定を受け保存されることとなった。現在はその松並木もなくなっているがこの塚だけは残っており、一里塚としては九州で唯一の国指定史跡となっている。」 都城市教育委員会 |