石橋巡り
(2004年11月21日)

2.道中で見たものその2
(入定石龕塔・台場跡・良清軒跡古石塔群・唐仁の恵比須像・開聞岳・風力発電風車群)

その1




1.東串良町〜大根占町〜佐多町



入定石龕(にゅうじょうせきがん)塔
町指定文化財

 「本史跡は上の雑木林の中にあったものを県道拡張時に移転したものである。
高さ2m、横0.9mのこの石龕塔は延宝3年(1675)10月10日園林寺の末寺、了叟寺の第9世住持、明山荘察が入定したと伝えられている。
 移転の際、塔内から火吹竹や一文銭・破損した瓶・小さい銅製の鐘が出てきた。
火吹竹は幼児の百日咳に霊験があるという伝えから近隣の人々が納め祈願したものと思われる。」

根占町教育委員会
史跡 台場跡
町指定文化財

 「文久2年(1862)8月21日島津久光の一行は薩摩(鹿児島)に帰る途中、武蔵生麦村で(現横浜市)行列を乱した英国人リチャードソンを斬殺し二人に傷を負わせた このことが原因となって薩英戦争が始まった。
 文久3年2月薩藩は英艦の錦江湾来攻を察知して沿岸の防備を固めたが、この時本町の根占港津柱神社裏と現在地、そして上ノ山の3ヶ所に五番陣(小根占、大根占、佐多、大姶良、鹿屋)の郷土が主になって台場を構築した。
 今この砲台の跡を土地の人々は「台場跡」とよんでいるが、台場の高さ3m、幅4mのこのみかげ石の石垣は延長60mにも達し、中央に砲身を構えた凹部が二つ残っている。近くにはエンショウ倉(煙硝庫)もあった。
 薩英戦争の際、発射する機会はなかったが錦江湾沿岸に数十の台場が構築されたなかで、当時の台場としての原型をはっきりとどめているのはこの台場だけという貴重な史跡である。

根占町教育委員会




良清軒跡古石塔群
 「良清軒は長能寺の末寺(禅寺〜曹洞宗)である。
 寺跡には肝付氏の宝きょう印塔・五輪塔・飫肥塔・地蔵尊・万霊塔などがある。
 苔むしたこれらの石塔は、古くから肝付氏の墓地であったことを物語る。
 良清軒の対岸には、求摩陣(別名下し丸の陣)、北側には御幣園城(別名大脇城)があり、永正3年(1506)、11代島津忠昌が高山城攻めをしたとき、この一帯で激しい攻防がくり返され、多くの戦死者が出たと伝えられる。 
 良清軒にも戦死者を葬った塚があり、タブの木が植えられている。
 江戸時代に鎮魂の万霊塔が建立された。
 西側の台地は軍原(いくさばい)といい塚のかたわらに、永禄3年の一千部経碑がある。
 近くの志賀下には観音像、南方の水源地近くに熊野神社がある。」

高山町教育委員会





唐仁の恵比須像 東串良町唐仁
開聞岳 根占町




開聞岳 根占町




開聞岳 根占町台場跡付近から




開聞岳 根占町台場跡付近から








風力発電風車群 根占町



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