石橋巡り
(2004年8月21〜22日)

道中でみたもの その1

(東椎屋の滝・南光寺仁王像・コスモス・大年社仁王像・大年社板碑・佐田京石・田の石・下市磨崖仏)
その2 その3



1.安心院町その1〜山香町 2.安心院町その2〜院内町
3.宇佐市その1 4.宇佐市その2 5.院内町その1 6.院内町その2







東椎屋の滝

安心院町東椎屋
南光寺の仁王
県指定重要文化財

「木造金剛力士像(二躯)

仁王は寺の山門にあって、方域を守護する金剛力の力士です。
 密迹金剛(口を開いている方)
 高さ 2.275m
 胸囲 1.550m

那羅延金剛(口を閉じている方)
 高さ 2.200m
 胸囲 1.550m
樟の寄木造。仁聞作といわれる男性美に満ちた鎌倉期彫刻の特色を表わしている。(一部は後世補修)」

安心院町教育委員会










米神山(475m)とコスモス

安心院町 房ケ畑





大年社仁王像





大年社板碑
大分県指定有形文化財

 「二基は、ほぼ同形同大で石材も共に凝灰岩。
 上段の板碑は塔身正面上部に大きく種子「アーク(胎蔵界大日)」を薬研彫りし、その下に「暦応四年(1341)巳三四)と陰刻しています。
 下段の板碑は塔身正面上部に大きく種子「バン(金剛界大日)」を薬研彫りし、その下に「建武元年(1334)八月二廿八」、その向かって下方左側に「四十八日衆各敬白」と陰刻があります。
 この板碑は時宗関係集団に依って南北朝時代初めに造立されたものと考えられています。
 一遍を宗祖とする教団が時宗で、南北朝時代から室町時代にかけて一大隆盛をきわめています。
信者には貴族・武士・一般民衆等あらゆる階層がいました。ここ佐田では佐田荘を領有した佐田氏(宇都宮系佐田氏)の建立と考えられます。武士が戦場で討ち死にした場合、時宗僧が十回念仏を唱えて極楽往生に導き、且つその活躍の様を遺族に伝えるという働きをした「陣僧」の存在も考えられています。」

安心院町教育委員会





佐田京石(さだきょういし)

 「太古の祭祀場か?鳥居の原形か?埋納経の標石か?定説は未だありません。
 通路を登って左側の柵内は、マウンド中央の石柱から半円形を描くように石柱が配された環状列石と推測されます。
 また、右側の昨内にはドルメン(支石墓)と思われる巨石があります。石柱の表面にはペトログラフ(岩刻文字)の存在が指摘されています。背後にある山は、米神山(標高475m)と呼ばれ、山頂部にも環状列石(高さ50cm程度の石)があります。また、ここから宇佐方面へ行った地点右側の水田中に、米神山側に先端が向いた立石があり、その上に小さな扁平石を載せたものが立っています。地元ではこしき石と呼ばれ、蓋石を取り除くと暴風になると伝え暴風石とも呼ばれています。
 この様に山の名やこしき石等、米に係る名が多く有りますので弥生時代頃のものとも思われますが、定かではありません。」

安心院町教育委員会





こしき石(暴風石)

米神山に向かって立っています。
これは何だろうか?と思っていたところ、帰って佐田京石の案内文を読んでみると、この石のことが記述されていました。


この左手奥に滑川2号橋があります。



下市(しもいち)磨崖仏
県指定史跡

 「北東斜面については、南北朝期を遡らない14世紀後半頃の造顕、
 南東壁については、鎌倉時代も13世紀頃の造立とみられる。
 以上のように、下市磨崖仏は二期に分かれて造立されたと考えられている。また、同磨崖仏の造顕には、この地の地頭新聞氏あるいは領家であった宇佐宮が関わった可能性がある。」

安心院町教育委員会
道中でみたもの その2へ