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稲はずいぶん伸びています。 日南市東弁分の田園地帯。 |
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| 神社境内の庭園 元は寺院があり、廃仏毀釈により五百撰神社が残ったのでしょうか。 池には1連の石橋、向うには3連の石橋が見えます。 |
五百撰神社(いおしじんじゃ) 日南市 |
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伊東家廟所(伊東家累代墓地) 日南市指定文化財 廟内右手にある三基の大きな層塔は、洞林公祐実(飫肥藩第五代)、天受公祐之(第七代)、玄徳公祐丕(第十二代)の本墳である。 中央には金柏公義祐(三位入道)以下歴代藩主の僑墳がある。右手奥の六輪を頂く十五基は、それぞれ正室のもので、その出自を示す家紋が刻んである。奥の左隅の墓は、天正遣欧少年使節「伊東満所」の母である「町の上」の墓と伝えられている。 左手前に並んだ卍字入りの八基は、いずれも藩主の死に殉死した忠臣建ちの墓で「追腹」のノミ跡もいたいたしい。その一つには「伊東修理大夫追腹 米良勘之助、行年二十八才」とある。 日南市観光協会 |
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| 五百撰神社裏の仁王像2体 |
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| 大迫寺跡石塔群 県指定建造物 「左手の坂を約200m登ると石塔群が存在する。ここは、中世の寺院墓地と推定され、板碑や五輪塔などが250基以上ある。 この石塔群のなかには、永仁3年(1295)、文保元年(1317)、正平25年(1370)など鎌倉時代から南北朝時代の墓碑で墨書きされたものも現存している。 左に鎮座する仁王像は、大迫寺の山門にあったものと考えられている。損傷・劣化の激しかった仁王像の履屋は、平成14年度宮崎県「神話・伝説の道快適周遊環境整備事業」にて改修工事を行った。 大迫寺(真言宗)は、島津氏が飫肥藩を領していたときは、中山寺本坊、阪本坊など12の支院があった大伽藍であった。 伊東氏が領主となってからは、願成就寺の末派となり、廃仏毀釈によって明治5年に廃寺となった。」 日南市教育委員会 社会教育課 |
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| 大迫寺跡石塔群 「大迫寺石塔群は。鎌倉時代以来の寺院墓地と推定され、五輪塔や板碑、宝筐印塔など250基以上の板碑、石塔からなる。年代が判明するもので、もっとも古い物は永仁3年(1205)の板碑が確認されtる。それにつづき、文保元年(1317)、正平25年(1370)の石塔、板碑なども確認されている。 鎌倉時代から南北朝時代を経て江戸時代までの墓碑が現存する。 石塔群は寺院周辺に散在していたが、荒廃が著しいため、現在の地に集められた。また、広域農道整備の際にここへ移されたものもある。 大迫寺(真言宗)は、島津氏が飫肥を領していたときは、中山寺本坊、阪本坊など12の支院があった大伽藍であった。伊東氏が領土となってからは、願成就寺の末派となり、廃仏毀釈によって明治5年に廃寺となった。」 日南市教育委員会 社会教育課 |
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| 法泉寺入口の仁王像 串間市 |
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| 梅雨の中休みで快晴。堀切峠の写真4枚。 | |
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| フェニックスドライブイン |
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