石橋巡り
(2005年3月21日)

道中で見たもの



松橋町〜御船町〜益城町〜熊本市




中原神社の近くに建っている道標




向うに見えるのが中原神社





天文碑
「天文年間に造立されたものであるが、地下にうもれ、昭和58年1月、有志により此地に再建す」
益城町教育委員会
益城町文化財保護委員会





水前寺成趣園
「細川忠利は、肥後入国に従ってきた豊前羅漢寺の僧玄宅のために、寛永9年(1632)、今の成趣園に水前寺を建立しました。その後綱利の時、寺を北隣に移し玄宅寺と呼び、その跡地に庭園を築き、お茶屋を設けました。これが今の水前寺成趣園です。年中絶えることのない清水の庭園は東海道五十三次をかたどったものと言われ、桃山式回遊庭園の代表的なものです。」
古今伝授之間の由来
 
「この萱葺の古風な建物を古今伝授之間と申します。今から凡そ400年程前、京都御所の中に建っていました。後陽成天皇の弟桂宮智仁(としひと)親王の書院を兼ねた茶室でございます。
この部屋で細川家初代の細川幽斎公が桂宮智仁親王に「古今和歌集の解説の奥義を伝授された由緒深い建物でございます。
後に桂宮家に於て此の建物を永く保存せんが為にその御領地、山城国乙訓郡(現京都府長岡京市)に在る長岡天満宮の境内に移し長岡茶屋と申されました。
その後、明治初年に之を縁故ある細川家に賜り大正元年に水前寺公園正面の現在地に昔の型通り移築されました。
屋内の杉戸には狩野永徳の「雲竜」(現在消滅)正面の襖に永徳の門人海北の「竹林七賢人」(現存)の絵があります。
 この建物が建っている場所は細川藩時代、藩主の「酔月亭」が在った場所です。」

古今伝授之間保存会





出水神社能楽殿
 昭和61年1月12日 竣工清祓式執行
「この能楽殿は、昭和天皇御在位60年を記念し旧八代城主松井家より移築奉納されたもので西日本随一の名舞台と評されています。出水神社の後祭神細川幽斎公をはじめ御歴代には武道はもとより和歌をはじめ茶道能楽など特に御創建と時を一にして、能楽殿がこの地に設けられました。爾来祭典の奉祝行事と各流派による奉納の薪能など盛んに催されてきましたが、惜しくも昭和40年火災に遭い焼失し成趣園の整備が進むにつれて再建復旧を望む声が日増しに高まり、御祭神と御縁深い松井家の御好意と関係各位の熱意により、天皇御在位60年を記念し御祭神ゆかりの伝統文化の更なる振興と発展を期して以前の場所に、成趣園待望の出水神社能楽殿があ見事に再建されました。」
出水神社





熊本城
「日本三名城の一つに数えられる熊本城は、加藤清正が幾多の実践の経験を生かし、慶長六年(1601)から七ヵ年の歳月を費やして完成したものと伝えられている。周囲5.3キロに及ぶ豪壮雄大な構えで、百二十余の井戸を掘り、最盛期には櫓四十九、櫓門十八、城門二十九を数えた。
 明治10年(1877)の西南戦争で多くの建物を焼失したが、薩軍の猛攻撃に耐え、名城としての真価を発揮した。
 熊本城の石垣は、特異な勾配と堅牢さで知られ、「武者返し」の石垣と呼ばれている。なお現在の天守閣は、昭和35年(1960)に再建されたものである。」

熊本市




櫓群
長塀




頬当御門 備前堀
「本丸への南からの入口は、下馬橋を渡って南坂(現行幸坂)を登る道であるが、その東側にあるこの水堀を備前堀と呼んでいる。
 加藤家の時代に、前国主佐々成政の一門佐々備前がこの近くに住み、屋敷を備前屋敷と称したところから、堀もそのように呼ばれたと伝えられている。佐々備前は加藤家侍帳で見ると千百石余で三番組の鉄砲組頭であった。
 熊本城の東から南にかけては坪井川を内掘に見立てたため、水堀はここ一ヶ所だけであった。」

熊本市




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