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| 飯蓋城跡と六地蔵塔 清和村文化財 「阿蘇家時代、興国4年(1343)豊後の大友義通の兵3万が馬見原より攻めて来ましたが遠の原戦に敗れ、逃げ帰ったといわれている名城で現在も城跡に当時の井戸が残っています。六地蔵塔は、城主の藤原光金によって大永7年(1527)に建立されましたが、近年倒れてしまい損傷、昭和32年に子孫といわれる熊本市教巌寺飯蓋正道の寄進により補修されました。年代刻字の見事さは大変有名です。」 |
国道445号線、二本杉峠の砥用側は濃霧に包まれていました。 |
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| 梅の木轟公園吊橋 五家荘 |
勝福寺古塔碑群 あさぎり町深田 「勝福寺古塔碑群は、巨刹勝福寺(真言宗)の墓地で、たくさんの五輪塔や宝塔、層塔、板碑が建立されている。鎌倉時代からは江戸時代後期にわたって建立されたもので、最も古い紀年銘を持つのが弘安4年(1281)の五輪塔であり球磨郡で最も古い。歴代の住職の墓や豪族の墓、相良家家臣の墓などあるが、室町時代以前の豪族の墓は誰のものか特定されていない。」 |
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| 人吉梅園 |
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荒田大王神社 球磨郡錦町荒田 伝説 荒田大王神社とマムシ 「平河右衛門義高は、鎌倉時代の初期に木上の岩城に居をかまえていた豪族です。ある日のこと、白馬に乗ってキビ畑を通っていたところ、突然マムシがとびかかってきて、馬の足に食いつきました。馬は驚いて棒立ちに鳴り、義高は落馬してキビの穂で目を痛めました。腹を立てた義高は、家来に命じて村中のマムシ狩りをさせ、ついに一匹残らず退治してしまいました。 この豪勇で聞こえた平河義高は、その後、人吉城主相良長頼と戦って敗れ、その古戦場は今も血敷原の名で呼ばれ、戦いの激しさを伝えています。 相良氏は、戦死した平河義高の霊を慰めるため、この神社を建立し、遺徳を偲ぶ領民によって義高は「大王さん」と呼ばれ、あつくまつられてきました。 現在でもこの地区付近には、マムシは住みつかず、マムシにかまれたときは当社にお参りすれば直るといって参拝する人が絶えませんし、ここの境内の土を塗って山に入れば、マムシの害をまぬがれるといいます。また、木上地区では白馬は育たなくなり、キビやトウキビを栽培しなくなったといいます。」 環境庁 熊本県 |
| 荒田大王神社の桁橋 橋長:2.5m 橋幅:0.59m 石厚:20cm |
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| 鬼の釜古墳 あさぎり町 熊本県指定史跡 「この古墳は古墳時代後期(6世紀後半)の円墳であるが、墳丘はかなり削り取られ、石室の一部が露出している。現況では直径約11m、高さ約4.5mである。 石室は巨石を用いた単室の横穴式石室で、才園古墳群2号墳の石室とならび、球磨地方の代表的な巨石墳である。 羨道部(古墳の玄室に通じる通路)は短く、羨門(羨道部と玄室の境にある門状の入口)は厚さ約80cmの巨石をくり抜いたもので、高度な石材加工技術がうかがわれる。玄室(遺体を安置する部屋)は幅1.9m、奥行き約2.4mである。 古くから開口しており、副葬品などは不明である。」 熊本県教育委員会 |
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| 神官型田の神 宮崎県東諸県郡高岡町浦之名 |
嘉永年間の作でしょうか |
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