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めがね橋 宮崎県えびの市大河平 実は、こんなところに石橋があるとは知りませんでした。国道脇に案内標識があったので入り込みましたが、紆余曲折、ようやくたどり着きました。 形 式:3連石造アーチ 橋 長:58.2m 径 間:14.7m+28.8m+14.7m 幅 員:2.3m(全幅3.16m) 橋 面 高:17.2m(アーチ天端まで15.2m) 完 成:昭和3年 (串木野村)福田休太郎 下青木 某・小門 某 国道221(268)号線道沿いに「めがね橋」案内標識あり。そこから県道404号線へ約300m先案内板の立っているところより右折。道なりに進み約1.3Km、坂を上ったところ左手に案内板あり。 |
国登録有形文化財 |
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通潤橋 上益城郡矢部町大字長原 国指定重要文化財 指定:S35.2.9 橋長:75.6m 橋幅:6.3m 橋高:20.2m 径間:27.5m 拱矢:14.4m 架橋:慶応7元年(1854) 石工:宇市、丈八(橋本勘五郎)、甚平、他。 のべ2万7千人 あまりにも有名なので省略。 初めて見たときには感動を覚えました、いや、その後も。 |
丁度放水の時間に間に合いました。 事前にインターネットで放水時間を調べていましたので、その時間に間に合うように、寄り道せずに到着しました。 この写真はなかなか気に入ってまして、修正してパソコンのデスクトップの背景に使用しています。 通潤橋は灌漑用水を送るためにつくられた水路橋です。 建設者は、矢部総庄屋布田保之助、工事を担当したのは卯助・宇市・丈八ら「肥後の石工」と呼ばれる名工たちです。工事は、嘉永5年(1852)12月から1年8ヶ月を要しました。 通潤橋は何のためにつくられたのでしょうか。まわりを深い谷に囲まれた白糸台地は水に乏しく、田んぼの水はもちろん、飲み水も足りないような状況でした。 このような人々の苦しむ姿を見かねた布田保之助は、6Km離れた笹原川から水を引き、連通管の原理を利用した通潤橋を完成させました。この工事の完成により、白糸台地に100ヘクタールの水田が開けました。 橋の長さ 75.6m 橋の幅 6.3m 橋の高さ 20.2m 石管の長さ 126.9m」 矢部町 |
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放水の様子をサイドから | 五老ヶ滝(高さ50m通潤橋の裏手にある) 画面右上にうっすらと煙が立ち昇っていますが、山火事だったみたいです。 |
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雄亀滝(おけだき)橋 下益城郡砥用町(ともち)大字石野 熊本県指定重要文化財 橋長:15.5m 橋幅:3.6m 橋高:7.4m 径間:11.8m 拱矢:5.4m 架橋:文化15年(1818) 石工:岩永三五郎(橋本勘五郎の叔父、当時25歳) 国道218号線を東進し、砥用町へ入ります。砥用中学校を過ぎて左手に案内標識があります。ここから右折して県道153号線へ。約3km先「雄亀滝橋」の標識より右折。案内板に従って進みます。 こんな山奥の険しい谷によくまー、架けられたものです。 |
緑川ダム南岸の山中にひっそりとたたずむ雄亀滝橋は三五郎が最初に手がけた橋としても、また用水路橋としても緑川流域に点在する石橋群の雄というべき存在です。 この石橋は時の惣庄屋三隅丈八が手がけた新田開墾のための用水路開さくの最大の難所(当惑谷)に6年の歳月をかけて作られたもので、通潤橋の完成より約40年も前のことです。 もともと用水路橋として往来の少ない場所に架けられていたため訪れる人も少ないのですが、180年余の時間を経た現在でも数十町の田畑を潤し続けています。 「緑川の支流柏川から取水する柏川井出が雄亀滝の深い谷を通る地点に造られた水路橋である。 柏川井出は、約65町歩に灌漑するために造られた延長約11キロに及ぶ水路で、下益城郡代不破敬次郎、砥用惣庄屋三隅丈八、横目篠原善兵衛等の協力によって、文化11年(1314)から文政2年(1819)まで6年を要して完成した。この工事に伴って、この橋は文化14年に建造されている。 橋は凝灰岩を使った単一アーチ橋で、長さ15.5m、幅3.6m、アーチのスパンは11.8mある。石工は岩永三五郎、大工は甲佐の尉助である。橋上の路面に石造の水路が埋設されている。もとは欄干を立て、道路橋としても利用されていた。 熊本県に現存する眼鏡橋の初期の実例であり、水路橋としては最も古いものである。」 熊本県教育委員会 |
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近くの山腹では、牛が放し飼いにされていました。 |
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霊台橋(れいたいきょう) 国指定重要文化財 下益城郡砥用町大字清水 橋長:89.9m 橋幅:5.4m 橋高:16.0m 径間:28.4m 拱矢:14.2m 架橋:弘化4年(1847) 石工:卯助、宇一、丈八(橋本勘五郎)ら72人、大工:万助、伴七、延べ4万4千人 緑川本流の最大の難所船津峡に架けられた日本最大の単一アーチ橋です。この橋は弘化4年(1847)に時惣庄屋篠原善兵衛の下、地元峠原の大工棟梁の伴七、種山石工の卯助兄弟、さらに近在の住人の総力を結集して完成したものです。これだけの大石橋がわずか6ヶ月で作られました。 橋のトップページへもどる |
大窪橋(砥用町) 砥用町特定文化財 下益城郡砥用町大字大窪 橋長:19.3m 橋幅:2.7m 橋高:6.0m 径間:12.0m 架橋:嘉永2年(1849) 石工:丈八(のちの橋本勘五郎)、新八 「国道218号からもよく見える上反りの石橋で、春は菜の花や桜、夏は青々とした穂、阿木は柿の老木に彩られ、四季折々に美しい表情を見せてくれます。 この橋は増水時の水の抵抗を減らすためにこのような構造をとったものといわれています。また、この橋はいったいでは珍しく手すりや高欄を備えており、それが上反りのシルエットと合わせ独特の雰囲気を醸し出しています。 大窪橋の特徴は縁の中心が常水面下であるため両基盤の中心角が157.4度です。中心高が単一拱(町内の眼鏡橋)としては平地架橋では限界のものです。」 国道218号線霊台橋から中央町方面へ約4.3Km、左折約100m先。 |