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阿波国分寺本堂北石橋
2013.06.09

徳島市国府町矢野

橋長:2.5m
橋幅:0.5m
単径間桁橋




名勝 阿波国分寺庭園
「阿波国分寺庭園が存在する宗教法人曹洞宗薬玉山國分寺の境内は、徳島市の西部、吉野川の支流鮎喰川を東に見下ろす丘陵東麓に位置しています。奈良時代創建期の遺構遺物としては、塔心礎と出土瓦のみですが、境内は徳島県指定の史跡となっています。
 阿波国分寺創建からの歴史は史料が乏く、中世には荒廃したものとみられます。土佐の長宗我部氏の阿波侵略から始まる戦火により、天正10年(1582)に本寺は焼失しました。荒廃の続いた本寺の本格的な復興は、江戸時代中期以後になり、寛保元年(1741)、当時阿波旧勝浦郡の曹洞宗丈六寺の客僧であった吼出養獅が中興の任を負って入寺してから始まりました。延享3年(1746)には真言宗から曹洞宗に改め宇治興聖寺の末寺となりました。
 現本堂(瑠璃殿)は、内陣天井画の描画年代から、国分寺9世光山文明の時期、文政9年(1826)頃に復興されたものと考えられています。この時、境内地に既に存在していた庭園にくい込んだ形で本堂が復興されたものとみられますが、庭園を破壊するというより本堂も庭園の一部とみなしたと理解することができます。
 庭園は、現境内東北部の庫裏書院から鑑賞する形式で、西南方に東西約46m、南北約42mの範囲に造られており、面積約1,900uです。書院の手前から南北に長い枯池を造り、中島を経て石橋で対岸に渡します。中島の左手、枯池の南岸には緩い築山を設け、随所に石を立てていますが、築山頂上の大石は蓬莱石を思わせ庭景を引き締めています。対岸に渡ると本堂基壇に接しますが、右手に玉石敷が、巨石を縦に組んだ天生橋下の枯流れとなって北部築山の枯滝に続いています。枯滝は尖頭形の立石3個で構成されています。枯流れは本堂の北側を巡っています。本堂北側には玉石敷の枯池が設けられ石橋が架けられていますが、枯池の一部は本堂の基壇下になっています。本堂西側にも低い築山が続き、築山中央に高さ4.3mの大石を中心にした石組があり、本堂建設以前の庭景の中心であったことが偲ばれます。
 この庭園の特色は、地元阿波産の青石(結晶片岩)の巨石をふんだんに使った豪快な石組にあります。これら大石の使い方は、桃山時代の特徴ある意匠や様式を示しています。作庭時期、作庭者ともに確たる史料はありませんが、この時代のこの地方の豪族による作庭と推定されます。後世の国分寺復興による庭景の変貌ということがありますが、庭景の全容はよく保存されており、遺存例の少ない近世初頭の庭園として貴重であり、学術上の価値も高い庭園です。」
枯流れは本堂の北側を巡っており、石橋が架けられています

側面

西側

本堂西側、築山中央に高さ4.3mの大石を中心にした石組は、本堂建設以前の庭景の中心

本堂南西側石組