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丈六寺徳雲院西橋
2013.06.09
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徳島市丈六町丈領
橋幅:2.0m
径間:0.6m
単径間桁橋
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徳雲院の西端
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南側
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内部
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徳雲院西側には「血天井」
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血天井
「戦国の代、土佐に起った長曾我部元親は四国平定の野望を抱いて阿波に攻め入った。阿波の南方各地の塁城を攻め降し那賀郡の富岡へ迫ってきた。富岡城の城主新開近江守忠之(僧籍に入って入道道善)は智勇兼備の猛将であって土佐勢をなやまし苦しめた。
正当なる攻略では不可と覚った土佐側は謀略を用いる方針を採り、丈六寺において和談を開きたいと新開側へ申し入れた。忠之はこれに賛同し会談の日を約束した。
丈六寺において土佐側と新開側の和談は開かれた。元親が四国平定すると忠之に勝浦郡を与え富岡城を保証するという好条件で忠之主従は満足し、和談成立の祝いと懇親を兼ねた酒宴は開かれ土佐側の厚意の美酒馳走を新開側は満喫し心から酔いに酔うた。
夕景に迫まらん頃忠之主従は辞して縁側に出た。曲がり角のフスマの片側に身を隠していた武士が抜刀して忠之の肩口に切りつけた。この時、床下に隠れていた武装した人々が踊り出た、所々に身をひそめていた武士が飛んで来る。裏山から俄に起るトキの声、大勢の武士達は縁側に近づき、又飛びあがる。「謀られたか」と憤り怒り狂いの白刃は奮闘勇戦するが、大勢に小勢、遂に一同斬り死にする。
その時、飛び散る血汐は流れて縁板にしみ入り真紅となり手の型、足の型、恨みの血塊は拭けども消えず、洗えども落ちず忠之主従の血汐は今なほ残っているのである。
忠之墓碑に『天正九年十月十六日』と刻みてある。
この縁板を天井板に用いて後世に造られたものが血天井である。」
丈六寺顕彰会 |