7,107
願勝寺庭園石橋
2014.05.04

美馬市美馬町願勝寺

橋長:m
橋幅:m
単径間桁橋




願勝寺庭園
「作庭年代 室町時代
様式 池泉観賞式(涸)(面積約317u)
沿革 斉明4年(658)奈良元興寺の福明律師が維摩会を開いて、斉明天皇の戒師となった。福明律師は、阿波忌部の正統の出自で、この律師の出世を祝して、叔父の玉満宿祢が一寺を建立して、維摩寺と称した。
 福明律師の没後、維摩寺を福明寺と改称した。保元の乱(1156)の後、阿波内侍尼の願いによって、福明寺を願勝寺と改めた。承久の乱(1221)では、後鳥羽上皇方について敗れ、堂塔伽藍を焼失。南北朝に入っては、後醍醐天皇の南朝に味方して、時の住職行真上人は細川和氏に暗殺された。その後、願勝寺ほ、細川頼春の説得を受けて細川氏の祈願寺となった。室町時代の終り頃に、阿波国中が日蓮宗に席捲されたことがあったが、願勝寺の快弁上人が立ち上り、日蓮宗を排撃。以後、願勝寺は阿波国中の真言八大寺の惣頭となった。
龍門瀑 本庭が小庭であるにもかかわらず注目されているのは、滝石組の透逸さによる。薄い板状の青石を水落石として組まれた滝は、天龍寺の滝と実によく似ている。鯉魚石も一段目の滝を登った上段に組み、その上に二段目・三段目の滝を組んでいる。この龍門瀑ほど、天龍寺庭園の滝と様式を同じくしている例はない。天龍寺庭園の庭石はほとんど四国の青石で、それは恐らく細川和氏・頼春の兄弟が運び込んだものと椎定される。この天龍寺作庭における細川家の青石の運搬と作庭の手伝いが、後に細川系の作庭を発展させることになったと思われる。
 願勝寺が頼春の祈願寺となったのは、頼春が没する正平7年(1352)までで、大瀧寺庭園が完成した貞和元年(1345)から数えて7年の間ということになる。ただ、このように時間的にごく接近して作られたとすると、池泉がもっと大きくなければならない。したがってもう少し後の時代ということも考えられる。」
真言宗御室派 宝壷山真城院願勝寺

山門の仁王像

境内

南北朝時代(1336〜1392)の築造とされる四国最古の池泉式枯山水の庭園

石橋がありました

側面

龍門瀑
「本庭が小庭であるにもかかわらず注目されているのは、滝石組の透逸さによる。薄い板状の青石を水落石として組まれた滝は、天龍寺の滝と実によく似ている。鯉魚石も一段目の滝を登った上段に組み、その上に二段目・三段目の滝を組んでいる。この龍門瀑ほど、天龍寺庭園の滝と様式を同じくしている例はない。天龍寺庭園の庭石はほとんど四国の青石で、それは恐らく細川和氏・頼春の兄弟が運び込んだものと椎定される。この天龍寺作庭における細川家の青石の運搬と作庭の手伝いが、後に細川系の作庭を発展させることになったと思われる。」