高松城跡
2014.05.04

高松市玉藻町




史跡高松城跡
「高松城は天正15年(1587)豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正によって、翌16年(1588)に築城が開始されました。その縄張り(設計)は藤堂高虎、黒田孝高、細川忠興など諸説があります。生駒氏は4代54年続きますが、寛永17年(1640)に出羽国矢島(今の秋田県由利本荘市)1万石に移されます。その後、寛永19年(1642)に松平頼重(水戸光囲の兄)に東讃12万石が与えられ、高松城に入りました。以後、明治2年(1869)の版籍奉還までの11代22時の間、松平氏の居城として威容を誇ってきました。頼重は、寛永21年(1644)に高松城の改修を開始し、寛文10年(1670)に天守改築、寛文11年(1671)からは東ノ丸・北ノ丸の新造を行い、2代頼常が完成させました。これに伴い、大手を南から南東へ移し、藩主の住居と政庁を一体化した御殿を三ノ丸に作ることも行われました。
 江戸時代には、内堀、中堀、外堀の三重の堀を有し、約66桝(約20万坪)という広さでした。明治初期に外堀が埋め立てられ、さらに徐々に中堀の一部が埋立てられ市街化が進み、現在約8万uのみが城跡として残っています。昭和29年(1954)に高松市の所有となり、昭和30年(1955)に国の史跡に指定されています。」

贈…公益財団法人松平公益会
重要文化財 高松城旧東之丸 艮櫓
三重、三階、隅櫓、入母屋造、本瓦葺
昭和25年(1950年)8月29日重要文化財指定
「高松城は、讃岐の国(香川県)の国主だった生駒親正公が築城したもので、生駒氏が寛永17年(1640年)に出羽の国(秋田県)に移封せられた後、寛永19年(1642年)に東讃岐12万石の領主として入府した松平氏が本丸、東之丸、北之丸などを修築し、規模を整えたといわれます。東之丸は現在の県民ホールのあたりをいい、寛文11年(1671年)頃より行われた大改修の際、新たに堀を開削して、海に面して新たに構えられた郭です。
 艮櫓は、もともと東之丸の北東の隅櫓として建てられたもので、北東の方角のことを丑寅(艮)ということから、この名前があります。記録によれば延宝5年(1677年)に完成されたようで、現在残されている月見櫓と同時期に建てられたものです。昭和40年(1965年)8月に当時の所有者であった日本国有鉄道より高松市が譲渡を受け、国庫、県費の補助金を得て昭和40年10月より工期2年、工事費2,800余万円を費やして解体修理を行い、東之丸の東北隅より現在の旧太鼓櫓跡に移築復元されました。この移築にあたって、艮櫓の規模に合わせて城内側に石垣の拡紅事を行ったほか、石落しの取付の関係上、建物を右に90度回転させています。櫓の構造としては南北に大きな千鳥破風を設けているほか、各階の窓の土戸に特異な形状をもち、さらに2、3階には城内側にも銃眼を設けるなどの特徴が見られます。移築修理の際、この櫓は建立直後に補強的な改造を受けているほか、安政3年(1856年)には、ほとんど解体に近い大修理を受けていることがわかりました。」

埋門(うずみもん)
「石垣をトンネル状に構築した珍しい門です。
どのように使用されていたかは不明ですが、枡形に入った敵を背後から攻撃したり、藩主の脱出経路として使う目的があったのかもしれません。」

枡形

披雲閣管理事務所

門をくぐると披雲閣庭園

重要文化財 披雲閣(旧松平家高松別邸) 平成24年(2012年)7月9日重要文化財指定
「松平藩時代にも、この地に披雲閣と呼ばれる広大な建物(現在の披雲閣の約二倍)があり、藩の政庁および藩主の住居として使われていましたが、明治時代に老朽化のため取り壊されました。その後、松平家第12代当主で貴族院議長も務められた松平頼義氏により、3年の歳月と当時のお金で15万余円の巨費を投じて現在の披雲閣が大正6年(1917年)に完成しました。この豪壮な和風建物には142畳敷の大書院をはじめ、槇の間・蘇鉄の間などの雅趣を生かした各部屋があり、波の間には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊になられたこともあります。
 昭和29年(1954年)に城跡とともに高松市に譲渡されて、現在は会議・茶会・生花展などの会場として利用され、広く市民に親しまれています。」


松の間
「高松松平家12代当主頼寿伯爵の居室として使われていました。北側に植わっている松の中には、内苑御庭の築造費と同じ金額の1本の松があるそうです。」

巨大な手水鉢

ど根性松
「景石の上に落下した松樹の種子が岩の亀裂に根を下ろし成長しています。樹齢はおよそ19年。
 果たして成木と成りえるのか?そっと見守りたい。」

大書院
「対面所として使用されていた大広間。床・違棚・付書院、3つの座敷飾りを備えた格式の高い部屋で建具を外すと、142畳の大空間となります。」

天守閣跡、鞘橋方面

鞘橋
「鞘橋は、二ノ丸から本丸へ続く唯一の動線であり、この橋を落とすことによって本丸だけを守ることもできるようになっていました。絵図等によると高松城築城当時から同位置に橋が架けられていたことがわかります。当初は『らんかん橋』と呼ばれ、1640年代半ばの絵図でも欄干が描かれており、屋根のない橋でした。その後、文政6年(1823)の絵図では屋根付の橋として描かれており、江戸時代に改修が行われたことがうかがえます。現在の鞘橋については明治17年(1884)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっており、大正期には橋脚が木製から石製lこ替えられたことが古写真から判明しています。
 昭和46年(1971)には老朽化による解体修理がなされ、平成18年から開始した天守台石垣の修理工事に伴って本丸例の一部が解体され、平成23年に修理されました。橋の架かっていた石垣が修理されたことに伴って、解体前よりもやや全長が長くなっています。」

贈…公益財団法人松平公益会

天守閣跡

高松城の歴史
「天正15(1587)年に讃岐1国を与えられた生駒親正は、翌16年『野原』と呼ばれていた当地を『高松』と改め、高松城の築城を開始しました。天守も生駒時代に造られており、天守台石垣からは生駒家の家紋が彫られた石材が見つかっています。生駒氏の治世は寛永17(1640)年のお家騒動による転封まで4代54年間にわたりました。
 その後寛永19(1642)年に松平頼重が入封し、寛文10(1670)年から天守の改築、東ノ丸・北ノ丸の新造といった事業を実施しました。2代藩主頼常の代には、月見櫓や艮櫓の建造、大手の付け替え等が行われ、概ね現在の高松城の形が出来上がります。その後、明治3(1870)年に廃城されるまで、11代にわたり松平家の居城として、東讃岐における政治の中心的役割を果たしてきました。
 明治期に入ると、外堀は埋め立てられて市街化が進み、海に面していた城郭の北側も埋め立てられます。また、中堀よりも内側は兵部省(のち陸軍省)の管轄となり、城郭建物の多くは破却され、天守も老朽化を理由に明治17(1884)年には解体されています。明治ま3年(1890)に再び松平家に払い下げとなったのちに、天守の解体された天守台には初代藩主頼重を祀った玉藻廟が建てられました。昭和29(1954)年に高松市の所有となったのち、昭和30(1955)年には国史跡に指定され、玉藻公園として市民に開放され、現在の姿になっています。


天守台石垣の修理
 
天守台石垣は築城後420年が経過しており、石材の割れや抜け、はらみ出しといった傷みが著しく、崩落の危険性が高いと判断されたため、平成17年度より石垣の修理工事を開始しました。
 この工事は、天守台石垣をほぼすべて解体し、再度積み上げるという全国的に見ても例の少ない大掛かりなものです。石垣を本来の形状に修理するだけでなく、石垣が傷んだ原因を解明し、修理方法の選択に活かすため様々な調査研究を行いました。石垣は文化財として重要な価値を持つものであり、修理に当たっては適切な記録を行いながら、伝統的な工法で本来の形状に戻すことが求められます。一方で破損の原因を解消するため、最小限の現代的な工法も取り入れています。こうした種々の検討を行いながら、一連の工事は平成24年度に完了しました。貴重な文化財を後世に伝えるため、今後も継続的な調査・整備に取り組んで参ります」

高松市・高松市教育委員会
天守閣跡から