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積善坊門前橋
2014.05.04

香川県東かがわ市引田(ひけた)

橋長:3.4m
橋幅:4.1m
単径間桁橋




積善坊(しゃくぜんぼう)
「当山由来
当寺は東面山宝泉(船)院西行(向)寺積善坊と号すなり。
 いにしえの奈良の昔、東大寺復興の勧進、行基菩薩この地に巡錫し、浦人の漁猟の営みを目の当たりにし、自ら地蔵菩薩を像立して衆生済度を祈願す。これ当山の開基なり。
 続く、平安末法の御世には、弥陀如来・聖観音を安座し、来世への安穏を祈る諸人の信仰を集めたり。山門の扁額には観音経の一偈『十方諸国土 無刹不現身』を掲げたり。
 時移りて、源平の頃、義経公、阿波より大坂峠を越え屋島に向かいし折、当院に宿営し地蔵菩薩に戦勝を祈願す。故に延命地蔵大菩薩、又の名を将軍地蔵と号し俗に目引き地蔵・つりあげ地蔵とも呼ばれたり。
 さらに、鎌倉期には、歌人西行法師、崇徳上皇を偲び鳴門の方より来寺。一夏を安居し、本尊詠嘆の歌を残せり。(境内に石碑あり)

あら鷹の下も引田の浦なれば 沖へに懸る白鳥の松

 戦国乱世には、生駒公、太閤の命を受け当地に入封し、城を修復。讃岐を統治することをニヶ年に及び、後に高松に移りぬ。当山の土塀・表玄関は往時の遺構なり。当院もこの項、南方山麓の吉田の里よりこの地に移りしものなり。
 やがて国鎮まり、初代高松藩主、龍雲院殿頼重公(黄門様の兄君)当院に逗留する事、生涯二十数度に及ぶ。当地の与治山に狩し、当浦松嶋に船出し、国境を見分すなり。為に寺門興隆し、当浦繁栄す。
 四国随一の巨像仁王尊は文化・文政の項の造立にて、近年修復せしものなり。
 明治・大正の激流の後、昭和の初め、成田不動御分身を請来し、現世利益・罪障消滅の祈願所とすなり。
 また、昭和の中頃には、客殿(大師堂)の再建成るなり。
 下聡国(千葉県)成田不動尊は弘法大師一夜の内に一刀三札して、影現せし、霊験あらたかなる御仏なり。近郷近在の民の信厚く、平成に入り、不動明王の主尊たる金胎両部の大日如来も勧請すなり。
 近年、十方檀越の浄財を募り、院内整備の事業始まり、本堂・仁王門・阿弥陀堂及び鐘楼堂・表玄関並びに十王堂等、順次改築・改修すなり。
 無魔成満し、今日に至る。」

以上 東面山記参照
積善坊の門前

側面

側面

奥から

仁王門

中の仁王像