宇和島城
2014.01.01

宇和島市丸之内1丁目3




宇和島城の沿革
「戦国時代高串道免城主の家藤監物が、天文十五年(1546)板島丸串城に入ったというのが、板島丸串城の記録に現れた始めである。
 その後、天正三年(1575)西園寺宣久の居城となったが、同十三年(1585)には伊予の国が小早川隆景の所領となり持田右京が城代となった。その後、同十五年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となった。
 文禄四年(1595)藤堂高虎が宇和郡七万石に封ぜられ、その本城として慶長元年(1596)築城工事を起こし、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣以下大小数十の矢倉を構え、同六年(1601)ごろまでかかって厳然たる城郭を築きあげた。
 慶長十三年(1608)高虎が今治に転封となり富田信高が入城したが、同十八年(1613)に改易となったので、約一年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。
 慶長十九年(1614)十二月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が字和郡十万石に封ぜられ、翌元和元年(1615)三月に入城の後宇和島城と改めた。
 それ以後、代々伊達氏の居城となり、二代宗利のとき寛文四年(1664)天守閣以下城郭全部の大修理を行い、同十一年(1617)に至り完成した。
 天守閣は国の重要文化財に、また城跡は史跡に指定されている。別称鶴島城ともいう。」

宇和島市教育委員会

藩老桑折氏武家長屋門 市指定有形文化財
「この門は、現在の中央町一丁目(現桑折小児科)にあった宇和島藩の家老桑折氏の長屋門として使用されていたもので、当時は、間口約三 十五m、奥行四・一mという実に立派なもので あった。
 昭和二十七年にここに移した際に向かって左 側の長屋の大部分を切り取ったので、現在ではかなりその原形を失っているが、なお往時の壮大な規模と構造の特徴を知ることができる。門の向かって右室は厩で、左室は門番と家付の使用人をはじめ、中間・小者が居住していたものである。
  建造時期は不明であるが、屋根瓦の定紋等から江戸中期のものと推定することができる。」

宇和島市教育委員会
なんとな時間に間に合いましたので、宇和島城へ上ります

階段を上がると

天守閣

二之丸跡から

当時のまま現存する天守、別名鶴島城

南東側

北側
これから宿泊地、西予市卯之町へ