高野長英の隠家
2014.01.02

西予市宇和町卯之町3丁目




高野長英先生 蛮社の獄で入獄。卯之町にも潜伏
「高野長英は文化元年(1804)五月五日、陸奥国水沢(岩手県水沢市)に生まれる。幼名は悦三郎。叔父高野玄斎の養子となり、高野の姓となる。杉田玄白や吉田長淑に入門した後、鳴滝塾でシーボルトに学ぶ。
 田原藩家老・渡辺華山や岸和田藩医・小関三英らと尚歯会を結成。飢餓対策や西洋事情の研究などに奔走する。天保八年、浦賀沖にきた米国モリソン号を幕府が砲撃。長英は『夢物語』を、渡辺華山は『慎機論』を書き、幕府の怒りに触れ、長英は永牢の刑になり入獄する(蛮社の獄)。入獄、六年目、獄舎が火災になり一時釈放されるが、そのまま逃亡。諸国の数多い門人や学者、また宇和島や薩摩藩主などに守られ、信越、東北、江戸、上方、宇和島、鹿児島などを巡り、六年間潜行する。
 宇和島藩内には嘉永元年四月二日に入り、宇和島横新町の宇和島藩家老・桜田佐渡の別荘に身を隠した。その間に『砲家必読』(全十一巻)などを訳している。翌年一月、追っ手から逃れるため宇和島城下を去り、卯之町に住む学友・ニ宮敬作の自宅裏の離れ二階などに潜む(現在地)。
 四月には鹿児島に向かったが安んずることができず、再び宇和島を経由し、六月三日卯之町に到着。十日間余滞在する。八月には江戸を経由し、下総に潜伏。翌年の嘉永三年再び江戸に帰り、青山百人町に居を構え、医業を営む。十月三十日、捕吏七人に襲われ、自刃する。」

製作 宇和郷土丈化保存会
宇和ライオンズクラブ結成四十周年記念
平成十二年四月二十三日
案内柱が建っています

高野長英の隠家