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慈眼寺庭園東橋
2010.05.03

新居浜市西之土居町2丁目

橋長:2.0m
橋幅:0.7m
単径間桁橋




慈眼寺の歴史
「慈眼寺の歴史は古く、源平合戦の時、源氏に味方して戦った関東武士で、金子十郎家忠が、その功績によって、伊豫の国の、新居郷と、兵庫の『いかるがの庄』の領地を与えられ、約百年後の、弘安六年(1283)頃に、金子頼広(家忠より五代目)が、当地に来て、館を、現在の慈眼寺の地に構えて山上に砦を築きて、金子城(別名=橘江城)とします。また、城の北側の山麓に、菩提寺を建立します。その後、応永十三年(1406)に、立派な堂宇が再建されました。当時の宗派は、臨済宗(禅宗)で、鎌倉の寿福寺派に属していました。
 その後、天正十三年(1585)に、秀吉の四国攻略が起こり金子城も落城して、お寺も戦火に遇い、焼失します。当時、金子城を守備していた、備後守の弟の対馬守元春は、今治の大雄寺に逃れて行き、自害しようとした時、住職の宗虎和尚に止められ『お前は、生きて僧侶となり、この戦いで死んだ人達の、霊を弔え』と諭されます。そして、和尚の弟子となり、修行の後、和尚の紹介で、現在の福島県いわき市平の、長源寺の、卓眼和尚を訪ねて行き師事し、修行の後に、故郷の地に帰り、戦いで生残りの者や、遺族達と力を合わせて、金子城の館跡へ寺院を建立します。時は、慶長十八年(1613)です。‥これが現在の慈眼寺の始まりです。名称は『松樹林=正法山、慈眼寺』とし、宗派は、曹洞宗です。次に、初代=関奄本徹和尚(対馬守元春)は、当時の、名僧でした。百九代=明正天皇より、御輪旨を賜り、また、三世=安禅恩長和尚も賜っています。故に、本堂の屋根の棟に、十六弁の菊の紋章を付ける事を、許可されます。尚、現在の慈眼寺は、『天正の陣』の四百年を記念し、平成四年に、総て新しく建替えました。慈眼寺には、金子山古墳、金子城の戦い別子銅山との関係、その他色々の歴史が有ります。」

平成十五年十月吉日
正法山 慈眼寺
山門をくぐり

左手に綺麗な庭園があり

さらに東側の庭園に3基架かっています

そのうちの東側の1基

側面