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国津比古命神社楼門横橋
2009.01.17

松山市八反地

橋長:1.2m
橋幅:0.4m
桁厚:15cm
単径間円弧桁橋





国津比古命神社楼門一棟
愛媛県指定有形丈化財
「この八脚門は、慶安二(1649)年に市内阿沼美神社に建立されたものを元禄年間(1688〜1703)に、この地に移したと伝えられるが、建立年については、慶長一〇(1605)年に初代松山城主加藤嘉明が建立したものという説もある。
 建築様式は、単層、入母屋造、本瓦葺、柱は円柱で、一部唐様を取り入れた和様建築である。
 入り口の虹梁やその他の部分に後代の補修や改造の跡があるが、虹梁の構造や蟇股などの彫刻に創建当初の技法を残し、全休に雄大で豪華な桃山建築の面影を伝えている。」

松山市
松山市教育委員会

国津比古命神社のいわれ
「国津比古命神社は古墳の上にお祭りされています。昔、むかし風早の郷に魂を感じた人たちがいました。その人たちはこの魂を国魂として素朴にお祭りしていました。
やがて、日本の国をひとつにまとめるときがきました。大和朝廷は氏姓制度のなかに国造などを定めました。
風早の郷には物部阿佐利という方があてられ、この方は、もともと風早にまつられていた国魂を敬い、なおかつ、自分の祖先である神様をも合わせておまつりし、櫛玉饒速日命神社と呼ばれるようになりました。後に、物部阿佐利命をいっしょにおまつりし、国津比古命神社と元の社名になりました。
頭日八幡宮と呼ばれた時期もありましたが、享保年間(1716〜1736)に、元の社名にもどりました。物部氏・風早氏の氏神として発展し、河野家の崇拝厚く、戦火により焼失した社殿が再建されました。
寛保元年(1741)松山藩主の松平定喬は毎年代官を参拝させました。渇水のため、雨乞いの神事が行われ、その折、奉納された扁額が現存しています。明治四二年、社格が県社になり、現在の拝殿内部は昭和四六年に改修され、昭和六二年に境内地拡張・斎館の整備などが行われました。」
国津比古命神社の楼門です

楼門の横に架かっています

側面

上部