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今治城西橋
2013.05.05

今治市通町3丁目1

橋長:4.1m
橋幅:4.1m
単径間桁橋




今治城
「今治城は、築城の名手、藤堂高虎により慶長7年(1602)に着工し同9年(1604)に完成しました。堀に海水を引き入れる日本三大海域の1つで大規模な近世の平城でもあります。また、日本で初めて層塔式天守が造られるなど、織豊期の城郭とは異なる革新的なものが認められます。
 藤堂高虎は同時期に徳川家康の天下普請に乞われ、各地の築城の縄張りに関与していることから、今治城は徳川系(関ケ原合戦以降)城郭の雛形と言われています。
 築城当時は3重の堀があり、いわゆる総構えの城でありました。城の規模は現在の10倍以上であったと言われています。現存するのは本丸と二の丸、三の丸の城塁と幅約50mの内堀のみで昭和28年に愛媛県指定史跡『今治城跡』に指定されています。
 現在の天守は、昭和55年に市制60周年を記念して再建されました。5層6階の天守には、武具・甲冑・刀剣など今治藩ゆかりの品が展示されています。御金櫓は昭和60年に、山里櫓は平成2年に市制70周年記念事業により再建されました。
 さらに、平成16年から19年にかけて、今治城築城・開町400年祭の記念事業として、総鉄板張りの鉄御門及び武具櫓、東多聞櫓、西多聞櫓、東西控塀の一連の建造物並びに明治期に取り壊された枡形石垣が市民の寄付により再建されました。
 これにより、築城当時の今治城の雄姿が400年ぶりに再現されました。」
今治城を見学

(くろがね)御門
「鉄御門の再建は、平成15年『今治城築城・開町400年祭』の記念事業の一環として計画されました。三の丸の大手筋にあたるこの郭は、総鉄板張りの鉄御門を始め武具櫓・東多聞櫓・西多聞櫓の7連の櫓で形成されていましたが、明治4年に消失し、翌年には本丸・二の丸の建築群と鉄御門枡形正面石垣も撤去されています。本計画は鉄御門・東多聞櫓・西多聞櫓及び東西控塀の一連の建造物を市民の寄付金により復元する事業です(武具櫓は昭和56年再建)。上屋建物については、江戸時代末期の慶応3年、半井悟庵撮影の写真と芳野家文書を復元の基礎資料とし、史跡今治城跡整備検討委員会の指導のもとに設計されました。発掘調査については、事業開始にあたり平成16年2月から史跡整備の基本である試掘調査を行い、平成17年10月から工事に伴う事前調査を開始し、旧櫓台の根石や下部築石、開礎石(石灰岩の大石)が地中より検出されました。
 石垣修復には、重さ16t、表面積8.9uの勘兵衛石を枡形正面中央に据え、出土大築石(表面積2.5〜5u)は出土位置に配する等、遺構築石を全て再使用、不足築石のみ地元大島産の野石(花崗岩)で補充しています。修復石垣面積は計314.9u、復元石垣面積は計37.1uに及んでいます。
 高虎時代の枡形地盤面は海抜5.8mと思われますが、現地盤よりかなり低く、復元は困難であるため、後世の久松期(海抜6.5〜6.8m)程度としています。これに伴い門前の石段・雨落ち等は同時期の形態を復元しています。
 建築物は、鉄御門・東多聞櫓・西多聞櫓は岐阜県・茨城県産欅材、背面冠木のみ岩手県産松丸太を、東西多門櫓は久万産地の桧材、小屋組は久万産の杉材と島根県・鳥取県産松丸太を使っています。
 鉄御門を初めとする7連棟の延床面積は769.2uとなっています。」


藤堂高虎像

目指すは西側のチェックポイント

石橋でした

側面

北西側

北西側