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みかえり橋

2004.08.07

大分市大字萩尾

橋長:4.3m
橋幅:2.8m
径間:3.5m
拱矢:0.8m
架設:大正8年(1919)


国道10号線、筒井大橋前から県道25号線へ
2.8Km先左手に吉野臥龍梅で有名な吉野天満社があります。社前の跨道橋です



臥龍梅の由来
「建久三年(1192)、京都堀川御所騒動のとき、禁裏守護の士、藤原信近が都を退いてこの里に来て住んだ。その一子近里は、孝心が深く天満宮を信仰した。ある日、近里は山に薪をとりに行き、過って右脛を折った。たまたま異相の翁に遭い、その教えにより築前(福岡県)太宰府に、十七日間参籠した。満願の夜夢に貴顕の士が現われ梅花一枝を賜った。近里はこれを持ち帰ってこの地に挿し祈念しながら培養した。ところが不思議に、その枝は芽をふき日増しに成長し、近里の病もよくなった。
 これは孝行と敬神の念が天に通じ神明の加護によるものだといわれる。その後、梅樹は繁茂し幹はみな左に捻じれて地を這い丁度龍が地に臥した姿に似ているので臥龍梅と呼ばれるようになった。
 又、永禄三年(1560)、正月 豊後国主大友義鎮公(宗麟)がこの地に遊覧し、饗応、あと鶴ヶ城主利光宗魚が観梅の宴を催した。宴たけなわのとき義鎮公は活花にしようと梅一枝を御用人湯布弥太郎に折らせた。その途端に弥太郎は気絶したが、暫くして我に返り『吾は、天満大自在天神なり。汝はこの地主たるが故に、この度だけは命は助くべし、今後一枝たりとも折るべからず。』と言って再び人事不省となつた。義鎮公は己の無礼を謝罪し、取った枝で御神体を刻んで奉納し、神殿を造り供米を献じて年々祭りを怠らなかったと言う。
 ある時、府内(大分)城主 松平不騫公(第6代大給近儔)がこの宮に参拝し神園をご覧になり嘆称の余り
   よしの芳野
     かしこは桜 ここは梅
とを詠みになった句を、後年 山田雅次郎氏(初代吉野村長)が句碑を建てた。
 又、松岡の俳人、安藤石友が安政六年(1859)、この地で馬蕉忌の句会を開き芭蕉の句
   この梅に 牛も初音と
             蹄つべし
 の句碑を建てた。」
 吉野臥龍梅の駐車場があります。そこから階段を登り、坂道を暫く歩くと吉野天満社があります。暑さもピークで大変でした

 ところが、県道を少し進んだところから神社への参道があり、こちらの方が随分近道でした。知らないと苦労することが多いものです

内部
上部
以上 2004.08.07撮影


5年半ぶりの訪問

西側

南側

正面

梅の花もほころびかけ、梅まつりが始まっていました
以上 2010.02.13撮影



5年ぶりの訪問

西側

東側

東側

臥龍梅

まだつぼみ
以上 2015.02.21撮影