上寺山 余慶寺

2009.12.05

瀬戸内市邑久(おく)町北島




中国観音霊場第二番札所 上寺山餘慶寺
「上寺山餘慶寺は天平勝宝元年(七四九)報恩大師によって開山され、以来一二五〇年以上の法統継承が続いている。
 餘慶寺は、往古には日待山日輪寺と称し、備前四十八ケ寺のひとつとして栄えた。平安時代には慈覚大師が再興し本覚寺と改めた。その後、近衛天皇の勅願所となり上寺山餘慶寺と改め、国家の安泰と五穀豊穣を祈願した。
 武家時代には赤松則宗公の信仰を得て、さらには宇喜多氏、池田藩主の尊崇と保護を得ておおいに栄えた。
 山内には観音堂、薬師堂、三重塔、地蔵堂、鐘楼、日吉社、愛宕社、開山堂などの尊堂が伽藍を連ねる。本堂は観音堂で、祀られている千手観音は古くより“東向き観音”と名高く、多くの霊験をあらわしてきた。
 かつては七院十三坊といわれた塔頭は、恵亮院、本乗院、吉祥院、定光院、明王院、圓乗院の、六院が現存している。
 これらの塔頭の多さは中国地方でもあまり他に例を見ない。さらに山内は豊原北島神社とも隣接し、平安時代より発展した神仏習合の姿を遺存している。」


餘慶寺本堂(観音堂)
国指定重要文化財
「棟札によると永禄十三年(一五七〇)に建立、正徳四年(一七一四)に再建されたもので、正面の向唐破風などは江戸後期に付け加えられたものである。大棟が短く隅棟が長い特殊な構造になっているが、それぞれの棟線が美しく、寺院本堂としては、まれにみる姿になっている。
 細部では拝の懸魚、軒の組物、下陣の太虹梁、正面の菱欄間などにすぐれた意匠と高い技術を見ることが出来る。
 正面の須弥壇には慈覚大師御作と伝えられる秘仏千手千眼観世音菩薩、さらに御前仏には観音聖地普陀山より勧請した神像をお祀りし、両脇には右に天台大師、左に伝教大師をお祀りしている。
千手観世音菩薩の御真言
“おん ぼさらだるま きりそわか”」

鐘楼
「嘉永三年(一八五○)に再建されたものであるが、その様式により桃山末期から江戸初期にかけての創建で、その形態を残すものと考えられる。屋根の二面に軒唐破風をつけた本瓦葺きの屋根は、きわめて豪華な意匠になっていて、その屋根と軸部、袴腰の均整がとれた美しさの中に躍動を感じさせる秀作である。
 鐘は青銅製で県指定の重要文化財でありその響きは備前八景に “上寺の晩鐘”としてあげられている。」


餘慶寺三重塔附棟札四牧
岡山県指定重要文化財
「餘慶寺本堂北側に位置する三重塔は、旧塔跡に再建されたもので、西幸西村、草井幸右衛門の私財により、六ヶ年を費やして文化十二年(一八一五)に完成しました。構造は、方三間(一辺三・八四m)、本瓦葺、総高二十・六m、初重の一辺三・四mを測ります。全体として江戸時代後期の伝統的な塔の形式に従った手堅い作です。
 棟札には工匠として宿毛村の田淵市左衛門繁数と田淵宇三郎勝孝二人の名が記載され近世社寺建築の大工集団として名を残した邑久大工の系譜や建築様式を知る上でも貴重な資料といえます。」

邑久町教育委員会(当時)
邑久町文化財保護委員会(当時)

薬師堂
「古くは山のふもとにあったといわれるお堂である。享保十九年(一七三四)の再建棟札が現存する。上寺山の他の建物にくらべて簡素な印象を受けるお堂である。
 薬師如来を祀るため、正面の扁額には“醫(医)王窟”とある。古くから眼病など病気平癒の信仰をあつめ江戸時代には朝観音、夕薬師と言われるほど信仰された。
 お堂の裏側には収蔵庫があり、薬師如来像(国重丈)聖観音像(国重文)十一面観音像(県重文)等が収蔵されている。
薬師如束の御真言
“おん ころころ せんだり まとうぎ そわか”」