撫川城跡

2010.01.04

岡山市北区撫川(なつかわ)




撫川城址について
撫川城址整備委員会、下東町内金
「1、現在の撫川城址は、東西77m、南北57m、幅15mの濠と野面積の石垣(一部)から成り、 別名“沼城”とも言われ、現存する城としては珍しいものであり、昭和32年に岡山県指定 史跡(第1号)になっている。
2、城址は、1559年(永禄2年)毛利氏配下の備中成羽城主三村家親が備前字喜多直家に備え て砦を築いたのが最初と言われています。
3、1575年(天正3年)に三村氏は、毛利氏に滅ぼされ、この城は毛利氏の出城となり、井上 豊後守有景がこの城を守備したと伝えられている。(毛利方の備中境目の7城の1つである)
4,1580年(天正8年)秀吉の“高松城の水攻め”の時、当時の城主井上有景は、毛利方の 国境防衛として、秀吉軍と交戦し破れ、この地は備前字喜多氏の所有するところとなり、以後20年ほど城番を置いていた。
5、1586年(天正14年)頃に、岡利勝が近世的な築城方式を取り入れた野面積の石垣を築き、 築城を始めたと伝えられ、現在その一部が城の西側を中心に残り当時の面影を残している。
 尚、1590年主君の宇喜多秀家が秀吉の要請で岡山城の大改造することになり、岡利勝が 着手した。(野面積は今も現存)1592年岡利勝は、朝鮮出陣中に病死した)
6、1602年(慶長2年)関ヶ原の役で東軍につき功績のあった戸川達安が、東にある庭瀬城跡での初代藩主として29200石を与えられたことによ、この地域の中心は庭瀬城跡に移った。
7、1679年(延宝7年)庭瀬藩主4代安風が死去したため、庭瀬藩が改易され、弟の戸川達冨が安風の名跡を継ぎ、知行地5000石の交替寄合となり、撫川城址を本丸として御本壇とした。(東の庭瀬城址を二の丸とし廃城として代官所を設け陣屋とした。:1699年;元禄12年の板倉家“詳顕録”より)
 以後、達索、達恒、達邦、達壽、達義、達寛、達敏と続き、明治2年(1869年)版籍奉還に伴い領主の座を退くまでの約190年間を治めた。達敏は後に讃岐に帰り隠棲した。」
撫川城址、この橋はコンクリート製