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旧足守藩木下家陣屋跡南橋

2009.04.04

岡山市北区足守

橋長:5.6m
橋幅:2.4m
2径間桁橋





足守藩屋形構跡
「足守薄祖木下家定は、もと杉原家定と称していたが、実妹の“ねね”が豊臣秀吉の正室(北政所)であったので、秀吉の立身出世に伴って一族に所遇されて、木下、続いて羽柴を、そして豊臣の姓を名乗ることと、豊臣家と同じ菊花紋と五七桐紋の家紋を使用することも許されていた。秀吉の死後、慶長5(1600)年に起きた関ケ原の合戦のときには2万5千石を領有して姫路城主であり、ねねを守護して中立の立場をとり、徳川家康の天下となった後の慶長6(1601)年3月に、備中賀陽郡と上房郡内に同じ石高で移封されて、足守藩を立藩することとなった。
 家定が慶長13年(1608)年に死亡した後、徳川家康が長男勝俊と二男利房の二人に、遺領を継ぐように命じたが、ねねが勝俊一人に相続させようとしたため、翌年に足守藩主木下家の領地は没収されて、浅野長居が藩主に封じられた。その後に長最は和歌山藩主に転出して、足守藩領は幕府の直轄領となった。ほどなく、元和元(1615)年の大坂夏の陣の後に、家康の幕下に属していた木下利房が再び足守藩主に封じられ、6年目にして足守藩主木下家は復活し、以後明治維新に至るまで存続して13代の藩主を数えた。
 利房は宮路山南東山麓のこの地に築造した藩主の居館の屋形構(御屋敷)を中核にして、藩庁や侍屋敷さらには町屋の整備を図って、治所の建設に努め、5代藩主利貞のとき(17世紀後葉)に足守藩陣屋町の完成をみた。
 明治維新後に屋形構の廃止された跡地は、文教施設の場として、l日制女学校、公民学校、青年学校、新制足守中学校などに継承され、最後に使われていた足守小学校のプールと足守幼稚園が移転された後、平成7年公園整備がされて芝生の広場に活用されるようになった。」

岡山市
陣屋跡の南側、写真左の橋です

東側

西側

下部

正面