因幡街道大原本陣 (寛政年間一七八九年〜一八〇一年建築)
「本陣は江戸時代の宿駅で参勤交代の大名のほか公家・幕府要人・高僧などの宿泊施設であった。
寛永十二年(一六三五年)の参勤交代制の実施以後、本陣職として恒常的な公的宿泊施設となった。
大原本陣は、因幡街道を往来する鳥取三二万石池田候が参勤交代の途中宿泊するところであった。
門は木羽葺の二脚門(御成門)は桁行四間・梁間四間半の単層で、屋根は入母屋造木羽葺の数寄屋造である。庭は廻遊式で、築山は川石をしきつめ渚に見立て、平場一面に白石を敷き、砂に波形の帚目をつける枯山水の庭園である。大原本陣有元家は、約二〇〇年前の本陣の遺構を今日まで残している数少ない本陣である。」
因幡街道 脇本陣 (文政年間一八一八〜一八三〇建築)
「江戸時代の宿駅の本陣に次ぐ重要な宿泊施設であり、大名や幕府の重臣が本陣に泊まるとき、家老や奉行の宿泊所にあてられた。
この建物は主屋を通りから後退させて前庭を広くとり主屋の玄関を通りに見せて格式を強調している。
桁行七間半に梁間五間半の大規模な町家であり、明治期の古町の町家建築に大きな影響を与えている。
また、この宿場町で唯一の長屋門をもち、この門を入ると中は廻遊式の日本庭園で、現在では珍しい水琴窟がいまなお残されている。」
因幡街道大原宿 町家建築の特徴
「この建物は、明治十八年(1885)に主屋と洒蔵を同時に建築したもので、大原宿の町家の代表的な建築様式であり、この大原の地の気候・風土に適した工法が各所に見られる。
また、優秀な職人たちの腕の見せどころであったことだろう。」
因幡街道と大原宿の歴史
「因幡街道は山陰側では上方街道とも呼ばれ、鳥取(因幡)から姫路(播磨)までを結び、古くから経済・文化・政治に、ある時は軍事目的にも利用されたものである。古く平安の頃、因幡の国司に赴任した平時範をはじめ後醍醐天皇が船上山(鳥取県)から京都へ引き上げるときも、この街道を利用したと沿道各地に伝わっている。
また、この大原の地は播磨・因幡・美作と三国を結ぶ交通の要衝でもあったため、古くから宿場町として栄え、近世末期(1846年)頃の資料によると、この大原宿には本陣・脇本陣をはじめとして十四軒の旅籠があり、特に鳥取藩主(三二万石)池田侯が参勤交代の途中宿泊に利用し、その行列は七〇〇人程度の人数であった。
このように、歴史的に重要な役割を果した因幡街道の面影を、今なお遺している宿場町である。」 |