高梁川東西用水組合沿革
「私達の住む倉敷の町は、江戸時代から明治時代の終わりまで約300年間にわたって干拓され、その土地を守るための築堤により川ができ、高梁川が運ぶ多くの土砂により広大な土地が形成されていった。
しかしながら、川の堤防は簡単なものだったので洪水のたびに大きな被害を受けていた。そこで明治44年(1911年)に高梁川改修工事が国の事業として行われることになり、それに伴い大正5年(1916年)に高梁川東西用水組合が19町村で設立され、14年の歳月を経て大正14年(1925年)に完成した。当時干拓地の用水は高梁川の両岸にあった11箇所の樋門から取水していたが、取水は思うに任せず干ばつ時には水争いが絶えずこれを解消するため、河川改修を機にこれらの樋門を統合し、農業用水を経済的、公平に配分することを目的として、酒津地点に取水樋門と配水池をつくることになった。この大事業の完成によって洪水被害や水争いもなくなり、倉敷市発展の基盤が完成し、現在でも1市2町に安定した農集用水を供給しているものである。」
酒津配水池面積 3.1ha
受益面積 約3,300ha(倉敷市、早島町)
取水量 代かき期 14,170立米/秒 普通期 9,226立米/秒 非かんがい期 2,410立米/秒
高梁川東西用水組合管理者 |