円通寺

2009.05.03

倉敷市玉島柏島




円通寺
「元禄十一年夏四月 徳翁良高和尚円通奄を建立 二世雄禅良英和尚の代に円通寺と改む
三世蔵山良機和尚の代に第百十一代後西天皇の皇女宝鏡寺門跡紫景愛尼公の筆になる“円通寺”の寺号額を賜わり 現在も本殿正面入口に掲げられてある 以後高僧が相継ぎ現在に至っている なかでも九世鉄文道樹 良寛の師十世大忍国仙 永平寺五十世となり正法眼蔵の刊行を完成した十一世玄透即中など有名である またこの地は円通寺をふくめて山全体が公園として 瀬戸内海の眺望は素晴らしい」
本堂

良寛堂
「この建物はもと円通寿へ修行にきた者たちが寝起きする衆寮であった 昔時は数十人の若き修行者が常時いたとのことである 良寛も二十ニ才の時 遠く玉島から越後の出雲崎へ請せられて光照寺に来た国仙和尚の弟子となり はるばる西国玉島の円通寺にきて この建物で寝起きして修行した 騰々任運の特色ある良寛禅の境地はここで生まれた 円通寺出身の絶世の高僧ゆかりを以て いまでは良寛堂と呼ばれることになった」
良寛堂

若き良寛托鉢像

円通寺詩碑解題
「円通寺に来りしより、幾春冬なるを知らず、門前干家の邑、更に一人だに知らず、衣垢づけば手づから洗ひ、食尽くれぼ城インに出づ。
 曽って高僧伝を読みしに、僧は可々(かなり)に清貧なりき。
 良寛は円通寺国仙和尚の許で安永八年二十二才の時に安居修行の場を求めてより、幾度四季の変転をみたことか、門前に数多くの家並を見ることもできるが、だれ一人として知己友人と呼べる者はいない。衣が汚れれば自ら洗い、食べ物がなくなれば、一日と十三日に村方へ托鉢に出かけるのだが、それは以前大蔵経の高僧伝を読んだ際、僧は清貧に甘んじることだと記してあったからだ。
 因みに、結句については、“僧は可々(かなり、相当)に清貧なりき”と、良寛愛読の寒山詩に“昔日可々貧、今日最貧凍”の一説を論拠として、“清貧に甘んじた高僧は古今を問わずかなり相当数実在していた”と解される。
 何れにしても後年子供達と任運騰々、行雲流水の時を楽しむ良寛の姿など、想像もできないほどの弁道精進一途な模範的青年僧良寛の姿が目に浮んでくる。」

全国・岡山県良寛会顧問
長川寺東堂 吉川彰準
巨大な良寛詩碑

上からの眺め

ボランティアガイドの方に案内して頂きました