縮景園
2009.04.05
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広島市中区上幟町
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縮景園 国指定名勝庭園
「縮景園は、広島藩主浅野長晟が入国の翌年、元和6年(1620)から、別邸の庭として築成されたもので、作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇が起用された。
園の名称は、幾多の勝景を究め縮めて表現したことによるが、また、中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられている。
園の中央に濯櫻池を掘って大小10余の島を浮かべ、周囲に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿などが巧妙に配置され、それらをつなぐ園路によって回遊できるようになっている。
この種の庭園は、回遊式庭園と称され、室町時代にその萌芽がみられ、江戸時代初期に最盛期を迎えた形式で諸大名の大庭圃の多くはこれに属する。
池の中央にかけられた跨虹橋は、七代藩主重晟が京都の名工に二度も築きなおさせたものといわれ、東京小石川後楽園の円月橋や京都修学院離宮の千歳橋にも似た大胆奇抜な手法が駆使されている。
清風館は庭園のほぼ中央にあり、庭園の結構にふさわしい数奇屋造りで、屋根はこけら葺きである。西側は優雅な書院造りの様式をそなえており、東側には花頭窓を設け跨虹橋を臨んでいる。
昭和15年(1940)浅野家から広島県に寄付され、同年7月12日国の名勝に指定された。
昭和20年(1945)原爆によって壊滅状態になったが、県教育委員会は、戦災前の景観に復すべく整備をすすめ、清風館、明月亭などの亭館も復元した。」 |
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5年10ヶ月ぶりの訪問
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梅祭りが開かれていましたが、いまいち
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清風館
「この清風館は園のほぼ中央に建っています。
面積は約178u、数寄屋造りで屋根は柿葺き、内部には玄関之間、老侯之間、清風之間、次之間、それに茶室、水屋があります。東側に花頭窓を設け、西側は優雅な書院造りの様式をそなえています。
昭和二十年(1945)八月六日、原子爆弾の投下により焼失したが、昭和三十九年(1964)に復元されました。」
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流川
「かつて、濯纓池から流れ出た水は、まっすぐ南に流れて流川を通り、広島湾に出ていました。」
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濯纓池
「宿景園の中央にあるこの大泉水は、広さは約八千平方メートル、最深部の深さは約一・二メートルです。池水は汽水(弱塩水)で正面築山の向こうの京橋川から満潮時に取り入れています。」
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楊貴妃型石燈籠
「形が唐の楊貴妃が付けた冠に似ていることから、この名がつさました。
同じ形のものには、京都市大徳寺内の聚光院にある千利休の墓があります。」
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島
「濯纓池には大小約十個の島が浮かんでいます。島は、鶴と亀をかたどっています。
鶴をかたどった島は、跨虹橋を挟み、東西一島づつ配置されています。
その石組は頭部が長く、手の部分が平立石となっています。」
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悠々亭
「この建物は四阿と呼ばれる様式です。
『宿景園之記』に『岸に添ひ池に浮かびてもの清う安らに建し』と記され、古くは納涼茶会や歌会などに使われていました。
昭和二十年(1945)八月六日、原子爆弾の投下により焼失しましたが、昭和四十四年(1969)に復元しました。
池水の みぎはのやどの
ゆふすずみ なつはいづくに
水がくれにけむ」
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迎暉峯
「園内一の高地です。
昔は、ここから、広島湾に浮かぶ似島や厳島が一望でき、出船入船の様子も手に取るように見えたといわれています。
ここからの園内の眺望は、景勝の名にふさわしい、すばらしいものです。」 |