街道の名所三永の石門
「この石門は、もと現在地より南東100m余りのところにあり、明治以来、街道の名所として知られてきたが国道の改良工事のため、すぐれたエ法を遺し、名門の名残を惜んで、ここに移転復元しました。
<由来>明治10年(1877)頃新国道(現旧々国道)を建設するにあたり、鯉が原用水路を切断するようになるので、関係農家が死活問題だとして計画に反対しました。その結果、国道上に石橋を渡し、用水路を維持するという条件で工事に着手しました。しかし、石材による架橋工事は失敗しその後、広村(現呉市広町)に住む鼎という石工が石造アーチ橋工法を用いて5年の歳月を費して明治15年(1882)春に完成しました。そして、これが“三永の石門”として近郷近在の多くの人々に親しまれてきました。
<特徴>上には用水路が、又下には国道が通るという両面用途の実用橋といえましょう。又アーチの外側を薄い板石で取り巻いています。これは盛土より生じる荷重を散らす等という構造上の役割を果していると思われます。又同時に装飾としても、大きな効果があるようです。このような構造をした石造アーチ橋は外に例を見ません。
三永の石門は、農業用水を守るための、石橋であり、本州唯一の純粋に農民のための石造アーチ橋です。この点において、三永の石門は地域の生活と一体化した貴重な文化遺産であるということができるでしょう。」
建設省広島国道工事事務所 東広島市教育委員会 |