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今伊勢内宮下宮参道橋壱

2009.10.11

福山市神村町

橋長:3.8m
橋幅:3.7m
単径間桁橋
架設:享保3年(1718年)




今伊勢内宮下宮由緒
「崇神天皇御宇、豊鍬入姫命が天照大御神を名方浜宮に四年斎き祀る。その旧跡に当宮が鎮座し、この山を鏡山(御神鏡に因む)、この地を神村と称す。“今伊勢神明注縁起”によると、応永三十三年(1426)平朝巨太夫末次が伊勢に参宮し、七夜参籠すると霊夢があり、鳥居に五寸の青目石があるのを国へ持ち帰るべしとお告げがあった。泉州境水圧に帰り、同三十五年になって西国へ供奉すべしとの霊夢があった。そこで摂津、播磨、備前、備中へ至るも何のしるしもなかったが、備後国沼隈郡神村庄の鏡山に至ると一足も進むことができなくなり、神慮に適う地として石を安置した。すると人々群集し、野気沼掃部守が社地を寄進し、同年二月に外宮を造り、正長二年(1429)四月に内宮を造営したという。文安二年(1445)神主荒木田平末次が願主となって領主杉原平朝臣政光が社殿を再興している。文明八年(1476、なお文明九年とする記もある)八月十三日、火災に罹り、同十年十一月に再建御遷宮が行われている。その後、明応七年(1498)、永正十五年(1518)、永禄四年(1561)に社殿の再興修復があった。江戸時代には福山藩主水野氏の崇敬篤く、元和八年(1622)に内宮再興、寛永十一年(1634)に外宮の修復が行われた。今の社殿は大正八年に造営された。昭和六年、県社に列格する。
伝承
 社に七本の杉があり、三杉・四杉と称している。豊臣秀吉が九州下向の時にこの地で餅菓子を食し、その時の杉揚積七本を“みすき世すき”と唱えて挿し置いたものが芽を出したものと伝える。“備陽六郡志”」
国道2号線沿い、参道は山陽本線に分断されています

享保三年

側面

西側

神社側から