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高木原用水路の石橋

2006.03.25

都城市北原町

橋長:10.5m
橋幅:3.5m
径間:4.45m
拱矢:1.46m
環厚:40cm

都城泉ヶ丘高校北側「高木原緑道」水辺の道に移設保存されています



1年位前、母から「都城でタクシーに乗っていて、石橋を見た」という話を聞いていました。
半信半疑で姫城町辺りから探しはじめました。客待ちで駐車しているタクシーの運転手さんに事情を話すとご存知で、ちょうどその方向に行かれるというので、先導して頂きました。
「おくつタクシー」の1161の運転手さん、有難うございました。

それにしても、こんな石橋が知られていないとは、驚きでした

アーチ橋の復元
「この石橋のアーチ(橋の下の半円)部分は、実際に市内にかかっていた石橋が大雨で崩れて通れなくなり新しいコンクリートの橋にかけかえたとき、保存しておいた石を使用したものです。
 石を組み合わせて互いに押し合う力だけで半円を保っており、コンクリートや金属などで石同士をつないでいません。
 昔ながらの石橋をここに復元することにより、都城市の橋の歴史をきざみたいと思います。」

平成13年5月
記念碑より

内部
流れを模した石が敷かれています


高木原用水路の歴史
「高木原用水路は、都城市の市街地より北東に位置する高木原地区への農業用水路として、鹿児島県境の今町有里井堰から取水し、市街地の東部を貫流し九州縦貫道都城I.C近くの花木川までの約18Kmに及ぶもので、途中を水路橋、サイフォン等をもって河川、道路等を横断し、その構造のほとんどが土水路であり、部分的に三方張、二方張石積により平均勾配1/3,500にて通水するものである。
 高木原用水路は、大正3年に着工し70余年の長い間、時代の変遷を経ながら高木原に富と恵みを与える用水路として県下でも大正初期の歴史的な大事業であった。都城市民にも「県庁溝」として、また、単なる用水路としての意義を超えて、生活の一部として親しまれ、市街地を問わず流域の少年たちにとっては遊びの場として、さらに、周辺の生活用水にまで利用され愛されてきたもので、市民にとっても名物のひとつとなっていた。
 用水路の延長は18Kmあります。堤防を築きトンネルを掘り(ずい道と言われます)ました。
 第一ずい道 100m
 第二ずい道 230m(大岩田町)
 これだけの大工事をするには、今のように機械がないため、多くの苦労がありました。」


高木原用水路の沿革
1912(大正元年) 有吉忠一、大淀川を水源として県営開田給水事業を計画し、内務大臣の裁断により河川引用が許可される。
1914(大正3年) 1月、県により工事着手。
1915(大正4年) 5月、用水路の竣工。
1928(昭和3年) 高木原耕地整理組合が管理一切を引き継ぐ。
1931(昭和6年) 4月、幹線水路の全線大改修完成。
1952(昭和27年)県営かんがい排水事業として着手。
1954(昭和29年)大洪水のため損害を受ける。
1963(昭和38年)県営かんがい排水事業として完成。
1979(昭和54年)県営かんがい排水事業(ポンプアップ)に着手。
1985年(昭和60年)60年度の水稲作までとして用水路を廃止。」

隧道を模したモニュメント

用水路跡地は「高木原緑道」として整備されています
この辺りは「水辺の道」

用水路の水源
高木原の様子
「高木原は、広い平地に田畑がひろがり、現在は耕地整理もきれいにできて、米づくりのさかんなところです。この田んぼの水は、今町の南有里から大淀川の水を取り入れています。その用水路の長さはおよそ18Kmあります。
 用水路の出来る前の高木原はほとんど雑木や竹やぶの荒れ地でした。このため田んぼは沖水川ぞいに少しあるくらいでした。
 沖水川ぞいの田んぼにできる米は、暮らしの為に売っていました。自分たちは家のまわりの少しの畑から取れる、粟やさつまいもを主食としていました。暮らしがまずしいため子守をしながら学校に通う子供もいたそうです。このように高木原の人々の米を作りたいという願いが用水路の開発となったのです。
 前田正名が高木原に今町の有里から水を引くという計画は1887年(明治20年)に立てられましたが水路ぞいの地主の反対などで中止になりました。
 1912年(大正元年)宮崎県知事有吉忠一が高木原などの開田を県の仕事として進めることになりました。」


開発の計画
「高木原に水を送る用水路の開発工事は、1914年(大正3年)1月に始まりました。今町の有里を水源地ととし、五十市から都城の東をまわり、沖水川の川底を通り抜けて高木原までです。その長さは18Kmもあります。
 用水路は堤防を築き、トンネルを掘り、途中で川を流すための放水路や川をこえるための水路橋、川底をぬける伏越などをつくりました。
 川をまたぐ水路橋は5ヶ所あります。またトンネルは2ヶ所あり、第一ずい道は長さ100m、第二ずい道は約230mあります。伏越は3ヶ所あります。中でも沖水川をサイフォンでくぐる伏越はとても工事が難しかったところです。
 このような難工事の末出来上がった用水路も二回の大雨でこわれてしまい、たびたび修繕が必要でした。総費用が当時のお金で28万9,946円だったそうで、高木原を開田した人々が15年間にわたって県に返済したそうです。」


開発の様子
「用水路工事と同時に高木原の人々は、開田したり。開田に水を引く小さな水路工事を始めました。約4年間で出来上がったそうですが、現在のように機械化していないころの工事でしたので、大変苦労が多かったようです。当時工事に参加した古老の話でも、すべて人力での作業で、今のようにショベルカーやダンプカーなどの機械がない時代で土を掘る道具は、スコップ・三つぐわ・山ぐわ・つるはしなどでした。このようになかなか仕事がはかどらず、子供までも働かなければならないような状況だったようです。
 この用水路を利用している地域は、沖水・高城町桜木・三股まちたで池を含み515.8haです。田を作る人は、沖水地区が中心で、松元・太郎坊・川東・金田・高木・横手・たで池などの地区です。
 また用水路が出来上がってから「高木原耕地整理組合」をつくって「水守人」をおいたり、組合で修繕費を出しあったりして今日まで見守ってきました。」