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東方大丸
太鼓橋
2003.11.16

小林市東方

浜之瀬川
橋長:27.0m
径間:15.3m
架設:弘化4年(1847)


国道221号線小林市街地から県道265号線に入り、「陰陽石」方面へ約3.7Km、東方中学校手前を左折約600mの地点です


東方大丸(ひがしかたおおまる)太鼓橋
宮崎県指定有形文化財
「東方大丸太鼓橋は、浜の瀬川にかかる石造りのアーチ橋で、大丸地区の新田開発にあたった薩摩加治木の豪商、森山新蔵が私財を投じて建設した、宮崎県内に現存する石橋としては最古のものです。江戸時代の終わりの弘化4(1847)年に完成しました。
 長さ約31.5m、幅約3m、高さ約14mのこの橋は、水路部分を切石積みで全体的には不整形石の乱積みで作られ、橋の横断面は上から下にかけて広がる台形状をなしています。こうした石積みの方法は同じ頃に鹿児島市の甲突川に架けられた5つの石橋(西田橋・新上橋など)にも見られ、当時のアーチ式石橋を研究する上で貴重な資料です。また、橋の北側にはこの橋に使われた石を取ったと思われる石切り場跡があり、壁面には「弘化二」と彫られた文字が今も残っていて、小林や南九州の開拓の歴史を知る上でも貴重な資料だと言えます。それまで木造の樋で水を引いていたため、この橋の開通によって、大丸新田の用水と交通の便は画期的に良くなりました。
 その後森山は、大丸開田や鹿児島藩の財政再建に貢献した功績によって、武士に取り立てられ、西郷隆盛、大久保利通など幕末に活躍した多くの鹿児島藩士を資金面で助けました。しかし、彼は当時の藩主島津忠義(茂久)の実父、島津久光の命に背いて、西郷や村田新八とともに大坂(現在の大阪)に向ったことが問題になり、また、息子・新五左衛門が寺田屋騒動に関わって自害したことを知り、藩の処分が決まらないまま文久2(1862)年に自害しています。」
宮崎県教育委員会・小林市教育委員会
上流側
(2004.03.14撮影)

左岸下流側
(2003.11.16撮影)

下流側
手前に現橋が見えていますが、上流側からでは石橋に隠れています

現橋の上から

「日向地誌」より
「東方村ト真方村トノ界濱瀬川ニアリ鹿児島士族守山與兵衛ト云者ノ住意シテ創築スル所ナリ初メ濱ノ瀬川ノ東涯畦圃多シト雖モ水利ノ便ヲ得ス天保十三年壬寅與兵衛其私金ヲ擲テ之ヲ造築ス其制柱桁ヲ設ケス両崖ヨリ石ヲ畳テ之ヲ築キ橋底ニ一大圓孔ヲ開テ川流ヲ通ス其形太鼓ニ似タルヲ以テ名ツク長十五間幅二間高四丈八尺餘橋上ニ幅六尺ノ水道ヲ通シ濱ノ瀬川ノ西岸猿ノ宮溝ノ水ヲ引キ東岸ノ田ニ灌ク其田十餘町貢租五十餘石ヲ得タリ元土人ノ通行ノ為メニ設クルニ非スト雖モ今土人其上ヲ往来シ民大ニ之ヲ便トス然ルニ近年與兵衛ノ子新五左處門罪ヲ其主島津久光ニ獲テ伏見ニ於テ誅セヲル與兵衛モ亦連累シテ遠島ニ處セラレン山川港ニ於テ乗船ノ時屠腹シテ死ス是ニ因テ其田没収今皆民有トナル土人●ニ與兵衛カ為ニ之ヲ哀ム」
以上 2004.03.14撮影


ちょうど3年ぶりの訪問

上流左岸側から
以上 2007.03.14撮影

4年4ヶ月ぶりの訪問
水量があるのでここまで

北側の石切り場
石切り場
「ここから切り出された石が大丸太鼓橋建造に用いられました。
 岩壁には“弘化二”(1845年)の年号が刻まれています。(斜め右上)」

平成12年3月22日
小林市教育委員会
「弘化二」と刻んであります
以上 2011.07.31撮影



3年半ぶりの訪問

上流側

今日はやや水量が多いようです

現橋の上から
以上 2015.02.01撮影