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享保水路太鼓橋

2003.11.16

えびの市大字大河平 字土川

有島川
橋長:34.0m
環厚:50cm
完成:明治3年(1870年)


国道221(268)号線道沿いに「めがね橋」案内標識あり。
そこから県道404号線へ入り、約300m先案内板の立っているところより右折
道なりに進み約1.3Km、左手に「めがね橋」あり。
そこから約400m進むと左手にあります


享保水路太鼓橋 国登録有形文化財
太鼓橋の歴史

「太鼓橋は、110×50×50cmの石を積み上げた用水路兼農道専用の橋で、この地に江戸末期(1850年ごろ)構築されたと言われています。
 それ以前は大雨のたび、有島川を横断する水路が流失していました。しかし、この橋を架けてからは、その心配もなく、現在でも飯野平野を潤す享保用水路の重要な一部を担っています。」

えびの市耕地課・宮崎県農村建設課


「太鼓橋は、享保水路の途中にある有島川を越えさせるための石橋で、橋の中央を幅1.6mの水路が通り、両側に幅西3.5m東4.5mの農道がついている。
 この橋ができる以前は、約200mほど上流を木桶で通水していたらしいが、もっと多量の通水を可能にするために、この橋が造られたという。
 二重積みアーチ型で、橋の壁石は、勾配をつけて積み上げられていて、しかも、勾配の途中で段差がつけられていて、珍しい型とされている。
 建造年月日は不明であるが、“忠義公資料”に“此溝筋ヲ今三四尺程モ相弘メ・・・本陣原堀続キ、中途太鼓橋一ケ所ヲ架シ、谷合ヲ越シ、溝ニ仕建(此橋凡長十四・五間位)候得バ・・・”とあり、一方、“西諸懸郡誌”によると、明治3年に鹿児島藩は飯野卸蔵米全部を支出して大修繕を加え・・・とあり、市来正右衛門の建議後四年にして架橋が実現したとみるのが妥当である。
 大正八年の“飯野村村治要綱”の中で、クルソン山端山寺の古文書“開田恩賞の墨付”について、水路成功の恩賞たるを知るべし・・・とあり、さらに、明治三年薩藩は飯野卸蔵米全部を支出して大修繕を加えたり、大河平太鼓橋の如き就中大工事なりき・・・・。と記されている。」

えびの市教育委員会
上流側

享保用水路の歴史
「本用水路は、川内川上流(旧飯野村大河平通称いいのフランス山上流約200m)に井堰を設け、飯野平野一帯の水田を潤す水路として、享保17年(1732年)に完成しました。
 伝説によれば、瑞山寺のある僧が水利計画を思い立ち、村民の総意を得て、私財を投じ、工事は実行にうつされたそうであります。総延長6,800m、幅21mの工事は、途中随道が5ヶ所もあり、当時は測量器具もなく、夜に提灯をあちこちに置いて土地の高低を測り、大変な苦労をして造ったといわれています。
 その後、災害を受けたり、古くなったため、昭和7〜10年と昭和54年〜60年にかけて、井堰と用水路の大改修が行なわれました。
 この水路の運ぶ水のおかげで、現在でも、「えびの」米で有名な米を中心にさまざまな作物が作られ、地域の発展に大きく役立っています。」

えびの市耕地課・宮崎県農村建設課
以上 2003.11.16撮影


少し雪化粧
2003.12.20撮影


享保水路井堰
国登録有形文化財
石造堰と石張の水叩からなる灌漑用水の取水施設。
今年国登録有形文化財に登録されました。享保水路橋から、川内川上流約4Kmのところに作られた取水施設です。

享保新田溝「日向地誌」平部驕南著より
「東北大平河村ヨリ来リ本村ニ入テ西南ニ流レ大平落ニ至テ仲伍塚溝ニ入ル長凡八町幅四五尺田三町許ノ灌漑ニ供ス」
明治39年(昭初改修)

2004.07.18撮影



右岸側

右岸側

左岸側

拱頂部

上流側
以上 2005.05.21撮影


7月の豪雨でこの水路も被害を受け、ポンプで川の水を汲み上げ、補充していました

水路横の田んぼは土砂が流れ込んで稲は全滅です

上流側
以上 2006.08.05撮影


雪景色

上部
以上 2007.01.07撮影



次女
2007.04.14撮影


約半年ぶりの訪問

2007.09.23撮影


Kさんを案内して

以上 2007.09.30撮影


半年ぶりの訪問、下流側

内部

左岸側

上流側
以上 2008.03.15撮影



2年8ヶ月ぶりの訪問

下流側

上流側
以前どこから降りたのか忘れました
以上 2010.11.20撮影