大坪橋の由来
「この眼鏡橋は幕末の名惣庄屋福田春蔵が慶応元年頃(1865年頃)宗方・中村地区の住民が水利に乏しく、干害に苦しむのを憂え、寺島井手の用水を引くため関係地区民とともに苦心惨憺して、吉田川右岸のもと熊八字大坪八六−二番地から山鹿字七ツ石一九七六−二番地へ架橋されたものである。 この橋は矢部町にある通潤橋につぐ全国二位の用水橋であり、二連橋としては県下約170基のうち第11位にかぞえられ、すばらしい造形美をみせる石の芸術である。 築造以来昭和28年9月26日までの約100年間その恩恵は実に多大なものがあった。今般吉田川河川改修工事によってやむなく撤去せざるを得なくなったが、先人の偉業を偲ぶためぜひ保存したいとの強い要望があり、県の協力を得てここに復元移築したものである。 昭和59年9月3日」 山鹿市教育委員会 |