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霊台橋
(架設当初名:舟津橋)
2003.10.25

下益城郡美里町(旧砥用町)清水

緑川
橋長:89.9m 
橋幅:5.4m 
橋高:16.0m 
径間:28.4m 
拱矢:14.2m
架橋:弘化4年(1847) 
石工:卯助、宇一、丈八、大工:万助


国道218号線砥用町大字清水



霊台橋(れいだいきょう) 国指定重要文化財
 「この地に橋が架けられたのは文政2年(1819)のことで、住民の懇願により時の惣庄屋三隅丈八等が中心となって木橋を架設したものですが、その後、度重なる洪水によって架け替えが繰返されたため、弘化2年、篠原善兵衛の惣庄屋就任により石造「眼鑑橋」の架設が計画されるに至りました。工事は翌3年2月から本格的にきまり、弘化4年(1847)2月に完成して渡初が行なわれました。施工は大工棟梁の万助、伴七をはじめとする地元の大工達や、石工棟梁として種山村の卯助ほか近在の多くの石工達によって行なわれました。(彼等やその一族は後に明治政府に仕え、東京で二重橋をはじめとする多くの架橋に携わっています。)橋は建設以来この地方の幹線道路として長く風雪に耐え使用されてきましたが、昭和41年に上流側へ鉄橋が架けられて国道としての役割を終わり、以後は砥用町の所有となって保存されています。霊台橋は九州を中心として数多く存在する石造アーチ橋のうち、単アーチとしては、8年後に造られた通潤橋と並んで日本最大のもので、建設のいきさつも明らかであり、当時の民衆の力と技術が結集されて築きあげられたものとして、江戸時代後期の日本の石橋の代表的存在となっています。
 現在見られる橋の姿は昭和53年から同55年(1980)にかけて保存修理された後のもので、それまで明治33年(1900)に石垣を積み足して高く平坦にしてあったものを、工事中の調査結果に保存のあり方の検討を加えて、建設当初の姿に復原したものです。ただ、現在高くなっている両端も、当初は道路とともに低いものでしたが、保存修理では現在の道路事情に合わせて階段を設けるなどして整備を行いました。従って、南端には大正9年に造られた森林鉄道のトンネルで、修理前には橋の中央まであった明治の取付路石垣をここまで後退させ、この橋のもつ歴史として残しました。その他、堆積していた土砂の除去、石垣全体の洗浄清掃、路盤地下への防水・暗渠排水設備、破損部の補修などを行いました。なおスパンドレル部で南取付路の著しい歪みは、大部分が建設中か直後から起こっているとみられ、現在はその進行が認められないし、もし積み直した場合には、一旦解体した材料を元の位置に戻すことが不可能であること、積み直した石垣に今後歪みの生じないという保証はないこと、さらにはその工事で石垣や裏込石を大量に取去ることが、橋の微妙な力学的バランスにどのような影響を及ぼすかを正確に予測できないなどの問題があって、今回修理の手は加えませんでした。従って石垣は建設当初の状況を引継ぐものとして、ふくらんだり、曲がったままになっています。しかしこれらは正常な状態とはいえないので、町では定期的に精密観測を行なって、石垣の動きを監視しています。
昭和55年9月」

「緑川本流の最大の難所船津峡に架けられた日本最大の単一アーチ橋です。この橋は弘化4年(1847)に時惣庄屋篠原善兵衛の下、地元峠原の大工棟梁の伴七、種山石工の卯助兄弟、さらに近在の住人の総力を結集して完成したものです。これだけの大石橋がわずか6ヶ月で作られました。
以上 2003.10.25撮影


2003.12.20撮影


2005.08.14撮影


久しぶりの訪問

右岸側

下流側
以上 2007.04.14撮影



3ヶ月ぶりの訪問

船津ダムの放水で濁流です

橋の袂には昨日の豪雨で流されたものが仮置きされています
以上 2007.07.15撮影



2ヵ月半ぶりの訪問

Kさん
以上 2007.09.30撮影



1年半ぶりの訪問
2009.03.29撮影