参考
牧野開田・新田山架け越し水路橋
(まきのかいでん しんでんやま かけごしすいろきょう)
2005.05.05

志布志町田之浦−末吉町新田山

志布志町指定有形文化財
平成16年7月28日指定




「安楽川の末吉町高岡口より延びる用水路のうち、花房川を架け越す水路橋である。大正6年(1917年)着工、同10年通水、同11年ほぼ完成と伝えられる。
 水路部分はコンクリートで全長は57.9m(架橋部分27.1m)、4本の石造橋脚を持ち橋脚高は6.75〜9.95m。水路上流側の端部には一体的に施工された逆サイホンを備え、流水は道路下を潜り抜ける。橋とサイホンが一体となった例は、本県では希少である。また、コンクリート用水溝と石造橋脚の混構造であることも、歴史的建造物として希少価値がある。
 5.5km余りの水路及び井堰と一体になった、新田開発のための導水事業として地域農業の開発努力を証明する歴史的建造物である。」
花房水路の下流をたどると石積み橋脚4本の5径間の水路橋がありました

道路をサイフォン式で渡してあります。
左手は上流側、花房水路橋の方向
周囲の杉がちょうど伐採されたみたいで、良く見ることができました

牧野開田
 「現在の大字田之浦の大部分は観応2年8月19日(1351年)修理亮源朝臣直顕より龍興山大慈禅寺が寺領として寄進をうけたところであった。牧野尾口の岩壁(花房川の志布志町側)に六十四世柏州和尚が牧野開田のため串木野の石工を使って、安政3年から同4年にかけ井手溝を貫掘したと和尚の記文が刻字してある。花房川の上流に井手堰を設け、水溝は尾口のところで暗渠となっていた。水量が少なく、開田は三反歩ほどであったろう。その後明治27年3月に建立した記念碑によると牧迫休右ヱ門外7人の名を記して一反歩につき金六十円の費用で一町一反四畝余を開田したようである。これは当時の講によって開田されたものであろう。
 大正年代に入ると志布志の住人中尾純隆が安楽川の上流より導水し、広大な牧野台地の未開田の畑、原野を開田する構想をたて、地区民にはかったところ松下藤市、黒崎十太郎、肝付十次郎等が共に発起者となり、大正6年5月に着工し、同10年通水し、同11年ほぼ完成したものである。その計画は、
(一)安楽川上流の末吉町高岡口に井手堰をもうけ、5.5Km余の用水路を掘削し、新田山の花房川を架越し水路(長さ60m)で越え、柏州和尚の貫掘した水溝の水を合流し、牧野まで導水する。
(ニ)資金は発起者が準備し、開田のところは土地所有者が按分して負担する。負担し得ない者は水田を提供する。
(三)開田の利益は出資者の出資額に比例して分ける、というものであった。
 測量、掘削、石工等は井久保の井久保喜次郎が受持って行なった。水路工事は岩石を掘削するところもあり、尾口のところでは柏州和尚の貫掘した暗渠の下側を新たに貫掘するという難工事であった。開田は主に「流し開田」で行なった。造成地が大雨で崩壊したり、開田工事中に1名の事故死亡者がでたりして、出費が多く、発起人出資者は所有の山林、畑を売って費用を償い、この不測の事故から工事は請負制にした。このようなことから発起者は窮し、松山町の素封家に相談し、新たな出資者を得て工事は続行した。開田当時は用水が不足し、昭和の戦後時代にいたっても用水の配分に苦心したものである。
 牧野部落民の住家は道路の下側にあったが開田に伴い上側に移転して現在に至っている。現在の水田面積は十八町歩余(関係農家93戸)である。」

志布志町誌より

以上 2005.05.05撮影


6年10ヶ月ぶりの訪問
架け替えられたかと思いました

下に降りると上流側に

保存されていました

新しく水路橋が架けられたようです
以上 2012.03.25撮影