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梅崎水路東大谷水路橋
(仮称)
2005.09.04

志布志町内ノ倉 東大谷

橋幅:2.9m(下幅)
径間:7.4m
拱矢:3.8m
環厚:48cm
輪石:35列
架設:明治36年(1903)
梅崎水路
工事者:下平市次郎(東志布志村内之倉)
石工:下平三次郎(長男)

県道34号線、串間市揚原で県道3号線に入り志布志に向かい約7.3Km先。県道3号線の太鼓橋の下流に架かっています


 8月29日、熊本のゆっきーさんから新発見の連絡がありました。場所は志布志町、県道3号線の太鼓橋の下流とのこと。
朝から台風接近の影響で雨が強く降っていましたが、現場へ着いて撮影する間、雨がやんでいました。

 この水路橋の近くのお宅の方にお話を色々とお伺いしましたら、なんとこの水路の下流にも石橋があるとのこと。そのことについて詳しい方を教えて頂いて、早速訪問、詳しく取材ができました。

 この水路は梅崎水路といい、総延長6.5Km、東志布志村の下平市次郎さんが出資して工事が行われ、明治36年に完成しました。
 潤ヶ野小学校の軒先を基準点として設定し、竹を割って水平に並べ、それに水を溜めて水平器として、水路の勾配を出したそうです。
 市次郎さんは帳簿をつけ、市次郎さんの長男三次郎さん(当時数えの27歳)が石工。次男の矢一郎さんは13歳で、食事係だったそうです。
 11の飯場が設けられ、その飯場は萱葺きだったそうです。
このときの記念碑は東原橋のたもとに移設されています。

 矢一郎さんのご長男に詳しくお話をお伺いしました。この水路の下流には3基の橋があり、そのうち2基は石橋だそうです。大体の場所を教えて頂き、歩いてみましたが、植生が激しすぎて到達できませんでした。
冬場に再挑戦します。

 後日、県立図書館で「志布志町誌」を調べると、梅崎水路のことが記載されていました(末尾に掲載)
※1週間後再訪し、2基とも探し出しました。

よく目を凝らせば、県道からも見えます

下流側

左岸側

右岸側

要石

左岸から右岸を

上部

記念碑は東原橋のたもとに移設されています
梅崎開田
 「梅崎水田12町歩余は明治35年に福島渡の下平三次郎が若冠26歳のとき開拓したものである。畑、原野を水田にするため地主と協議し、主だったもの13名と約定書を取り交わした。その内容は、
(一)工事者(下平)は倉園に井手堰を築き、梅崎まで一里(4Km)の水路を通す。
(ニ)水路の幅はニ尺五寸、深さはニ尺。
(三)工事の資金、その金策、また人夫の手配、人夫の米飯類の調達、作業の責任は工事者がする。
(四)工事費に充当するため契約地主は該当所有地の五分の三を工事者に無償譲渡する。この面積は一町三畝を約束する。所有地を譲渡しないものは五分の三に相当する面積につき一畝当三円を現金で支払う。
(五)該当所有地の移転登記は通水した日から三十日以内に測量しておこなう。
(六)契約地主は五分の二の所有地の開田を自らおこなう。
(七)通水してから五カ年以内にこの水路用水で開田す者は前述(四)の要領でおこなう。
(八)工事着手後に契約地主が都合で取りやめたときは前述(四)の要領で工事者に土地を譲渡する。
(九)通水後五年以内に水路が破損したため水田にならず、もとの畑、原野にもどったときは工事者は譲り受けた土地を元の地主に返す。
(十)通水後四、五年以内に水路、井手堰が破損し、修繕したとき関係地主は工事者に見舞金を出す。
というもので、工事者は通水後五カ年間この工事の責任をもっていた。
 日露戦争直前の世情騒然とした明治35年旧7月に若妻、弟達と力を合せ工事に着手し、工事費千余円で同年旧10月に完成した。翌年には三町歩余を開田している。水路測量の器具は水盛器一個と間竿一本で、竹樋に水を流し、高低を定めたところもあった。最も苦労したことは
(一)譲渡予定地を畝当り三円で売り、工事費にあてる計画であったが買受人がなく、また畝当り三円を現金で支払う約束が履行されず、家屋敷、山林田畑を抵当とし、また知人の田畑を借りてこれを抵当とし千円余(当時米一升三銭五厘日傭賃八銭)の資金をつくったこと。
(ニ)水路用地は関係者以外の土地、官有地があり、交渉が難行したことである。
 工事が完成し、通水したときは地区民、農家は歓喜し、相撲大会を催し、以後毎年完成記念日には現地で野宴を催している。開田由来を記した水神石碑が建っている。

 台地、岸丘上の開田には長い用水路の掘削が行なわれ、この工事は近代以前の開田工事では難しかった。上流の井出から5〜6Kmの用水路をほぼ等高線に沿いながら、丘や谷川の急斜面を明渠、暗渠で開通させるためには近代的な土木技術が必要であった。それ以前では真っすぐな竹を二つ割りにした竹樋に水を流して高低を定めた。急斜面の崖を掘削するときは上の方から人夫をつり下げて作業し、丘や崖をくりぬくときは両端から人力で掘り進み中間ころは両方の掘削の音を聞いてつないだという。長い暗渠のときには、横穴をあけて掘り取った土砂、岩石を外に運び出すという難工事であった。岩を掘削するときはノミ、ツルハシを用いたが、時には炭火をたきかけて、ひびが入ったところをツルハシで割ったという。
 井手は木、竹、柴、石を組み合わせて作ったが、大水のときしばしば崩壊、または流失したものである。」

(志布志町誌より)