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正ノ宮正八幡神社壱之橋
(しょうのみやしょうはちまんじんじゃ)
2007.06.09
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行橋市行事7丁目
橋長:3.2m
橋幅:3.1m
架設:昭和3年11月
2径間円弧桁橋
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行橋と森鴎外『小倉日記』
旧行橋町
「今川、長峡川の河口に拓けた集落。旧豊前国京都郡と仲津郡境に立地。明治22(1889)年、京都都行事村、仲津郡大橋村、宮市村の三村が合併。「行橋」は、行事の「行」と大橋の「橋」を採用し施行された町名です。江戸時代は商業地域として発展し、蔵、屋敷、商家が立ち並ぶ在郷町でした。明治期には、郡役所、銀行、警察署、裁判所等が設置され、筑豊炭田の発展に伴い、鉄道が開通。大正末から昭和初期にかけて行橋町耕地整理事業が実施され、行橋駅周辺に、ほぼ現在の市街地の原型が形成されました。
昭和29(1954)年、近隣一町八村(行橋町、蓑島村、今元村、仲津村、泉村、椿市村、延永村、今川村、稗田村)が合併して「行橋市」となりました。
森鴎外の『小倉日記』
「明治時代の文責・森鴎外(1862〜1922年)は、陸軍第十二師団の軍医部長として小倉に赴任。『小倉日記』は、明治32(1899)年6月から35(1902)年4月までの2年10ケ月を九州の地で過した時につづられたものです。鴎外と行橋との関わりは深かったようで、行橋には三度訪れたことが記されています。
@明治33年10月13日 行事高等小学校にて講演
A明治34年7月3・4日 陸軍演習(7月3〜9日)
B明治34年11月15日 行橋町散策
日記には、講演で訪れた行事高等小学校、料亭梅乃屋、柏木勘八郎邸、陸軍演習で宿泊した近江屋、清遊で参拝した草野正八幡宮(正ノ宮正八幡神社)、禅興寺などが登場します。
明治34年11月
「15日。味爽、俊兢師来たりて、予を喚んで起たしめ、偕に行橋に行かんことを勧む。(中略)行橋に至る。草野八幡宮に詣づ。享保三年の石華表あり、猪熊、草野、長音寺の諸村を望む。師の従弟、山本勝平の家に午餐す。
午後、田畦を歩みて稗田村を望む。村上仏山の郷なり。
大橋の禅典寺を訪ふ。三時七分汽車に乗りて還る。
出典『森鴎外全集』第三十五巻
文中の「俊兢師」は、草野正八幡宮の宮司広瀬延孝の二男でした。玉水俊祇は、鴎外と親交のあった小倉安国寺住職です。また、享保3(1718)年の石筆表(小鳥居)は今も残っています。『小倉日記』は明治30年代の北部九州の歴史、民俗、人物、景観、町並み等が散見され、近代の当地域を知る上で貴重な資料です。」
行橋市教育委員会 |
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地図を見て訪れると、期待通り4基の橋が待っていました
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鳥居の向こうには弐之橋
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側面
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親柱
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下部
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上部 |