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豊日別宮参道橋

2010.07.03


行橋市南泉7丁目

橋長:2.3m
橋幅:3.1m
桁9列
単径間円弧桁橋
架設:明治45(1912)年




豊日別宮(とよひわけぐう)(草葉神社)の由緒
「欽明天皇即位の年(532)、神が老婆の姿と化して現われ。神宮の大伴連神牟弥奈里に『我は猿田彦大神なり天皇を護り臣民の繁栄と安寧、五穀豊穣、病平癒の神である』と告げた。翌日、大神は豊日別宮に降臨し、『猿田彦は天照大神の分神なりこれにより豊日別大神を本宮とし猿田彦を以て別宮となす』と告げたことから社殿を建てて祀ったのが本社の起源とされる。
 欽明天皇二十八年(567)には洪水飢饉などが各地を襲ったが、豊日別大神に祈願し治まったといわれ、その後代々の天皇によって大和の霊跡、西海鎮護の神として尊崇されたという。
 養老四年(720)大隅、日向の隼人が反乱したため、朝廷は大軍を派遣するとともに宇佐八幡神に祈願してこれを討伐した。しかし官軍に殺された隼人の祟りで、さまざまな病や災いがあったため、宇佐八幡神は隼人の霊を鎮めるため金光明経の教えに基づいて『毎年放生せよ』と託宣した。これにより魚や鳥などを解き放って生を全うさせる仏教儀礼である放生会が行われるようになった。放生会の際に朝廷の勅使が一旦、豊日別宮に官幣を奉安したことから官幣宮と呼ばれるようになった。
 官幣泰安の間、田川郡採銅所では宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造し、それを豊日別大神に併せて祭り、本社の神輿とともに陣列を組んで宇佐への神幸が行われた。神幸の経路は八月九日草葉豊日別宮と発し、国作御所屋敷、徳政若宮を経て十一日祓川で禊をし、その後築城郡湊八幡宮、上毛郡高瀬村、宇佐郡佐野里を経て十三日凶士塚に至り宇佐神宮の神幸を待つ、宇佐八幡の神輿が到着すると並んで和間の浜に向い、浮殿頓宮に宇佐八幡神に官幣と神鏡を奉る。
十四日夜、法会と伝戒があり、十五日朝、海に蜷や貝を放流する。
宇佐神宮に対して度々行われる官幣の奉納に際しては、その後も豊日別宮が官幣奉安の宮居となった。」

豊日別宮 顕彰会
豊日別宮(草葉神社)

注連柱の手前に架かっています

明治四十五年

側面

社殿側から