御花
2008.01.20
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柳川市新外町
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「御花」の由来
「御花は旧柳川藩主立花家の別邸です。江戸時代この地域が『御花畠』と呼ばれていたことから、柳川の人々は当家のことを『御花』と呼んできました。
元禄十年(1697)頃、立花家四代鑑虎(あきとら)の時、別業(別邸)を営んで御茶屋と称し、亭名を集景と名付けたのが現在の御花に連なるものと考えられています。少なくとも元文三年(1738)には、藩主と側室そしてその子供たちの生活空間(奥)として使用されていたようです。現在の建物、庭園の大部分は明治時代の終わりごろに十四代寛治(ともはる)によって新築されたものです。西洋館と大広間、庭園(松涛園)といった現在に通じる建造物群が整えられていったのはこのときです。
正門から西洋館と和館、そして庭園(松涛園)は昭和53年、国の名勝に指定されました。」 |
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西洋館
「西洋館は木造2階建の洋風建築です。屋敷全体の玄関であり、接客の場として用いられました。
1階は車寄・玄関・家従詰所・應接室・食堂・西玄関・便所、2階は廣間・喫烟室・婦人室・階段上り立ノ間があります。」
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松涛園
「松涛園と呼ばれる庭園は、仙台松島の景を模した設計で、園内には1500個の庭石と約280本の松があり、大部分が200年以上の古木です、大広間前の巨石は旧天守閣の台石を移したものです。毎年10月頃より4月半ばまで約500羽の野鴨が池に群がり、一層風情をそえています。
昭和53年、国の名勝に指定されました。」
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大広間
「大広間は客室として作られたもので、総て木曽桧を用い、中の間三の間の床は畳を取り除くと能舞台として使用できるようになっています。」
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金箔押桃形兜(きんばくおしももなりかぶと)
桃山時代〜江戸時代初期
「桃形兜とは、頭部が桃の実をかたどっていることからつけられた名称で、戦国時代には多く用いられた形式の兜である。立花家には200頭以上もの同様の桃形兜が伝わっており、中には文禄・慶長の役に使用されたと伝えられるものもある。」
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御花資料館『殿の倉』
「平安時代、貴族の間で始まった「ひいな人形」の遊びが三月三日の雛祭になったといわれています。
雛道具は実際の婚礼調度の雛型(ミニチュア)で、婚礼の際、調度と共に持参するのが習わしであったといわれます。小さくても細部まで本物と同様に作られており、その細密さには驚かされます。立花家に伝わる雛道具の種類は実に広範囲で、細かな内客品、付属品まで含めると総点数は数百に及ぶ大揃です。江戸中期の大名婚礼調度の圧倒的なまでの豪奢な姿を想像することができましょう。」 |