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大生寺門前橋

2010.05.15


うきは市浮羽町流川字徳正

橋長:1.6m
橋幅:2.8m
桁2列
単径間桁橋




五葉山大生寺(臨済宗妙心寺派)沿革
「往昔当時は奈良時代に行基菩薩(六六八〜七四九年)によって民衆救済の道場として創建された。桓武帝延暦元年(七八二年)には五台山大聖寺と称し、勅願寺となった。月谷和尚の時に、天台宗に改宗して、以来鎮護国家、致福銷災の寺として、密教の秘法を似て衆生を済度した。
 時代の推移と共に、旧仏教は堕落し、他方新仏教の競い興るなかで、やがて当寺も衰微していった。
 明徳二年(一三九一年)曹洞宗の無着妙融禅師によって再興、五葉山大生寺と改めた。寺号は当地浮羽郡の旧名生葉の二字を採って命名された。以来、曹洞禅の宗風大いに振い、九州三大禅窟の一つとして令名高く、二筑一肥(筑後、筑前、肥前)に末寺二百七十五ケ寺をかぞえる本山となり、山内に塔中七ケ寺を擁したと伝えている。
 天生年間(一五七三〜一五九一年)大友氏による寺院焼却、寺領没収にあい、戦国動乱のすすむなかで、寺運は漸次に衰微した。後、慶安元年(一六四八年)有馬忠頼公は、梅林寺第二世澤雲和尚に当寺の復興を命じた。
 よって、澤雲和尚は高弟月洲和尚を派遣入寺せしめて再興をはかった。公は寺禄三捨石、山林七拾町歩を寄進して護持をはかった。 以来勧請開山は澤雲和尚、創建開山は月洲和尚となって、法燈連綿十八世をかぞえ、臨済の栄西、白隠の禅風を挙揚して現在に至っている。
 明治維新並に昭和敗戦に際しては、先には寺禄山林の奉還、排仏棄釈に、後には農地解放と、それぞれ変革の危急に直面し、寺院の護持に多難であったが、前者には、歴代の和尚あって、諸善知識の徳化と護持の努力によってともに復興の実を挙げ、檀信徒の帰衣も亦日を逐って加わり、名声漸く高きに至っている。」
門前に架かっています

下流側

上流側

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