史蹟 豊前国分寺

2008.07.06


京都郡みやこ町国分




史蹟 豊前国分寺
「国分寺は奈良時代に聖武天皇の勅願(741年)により、全国の国毎に設置さた国立寺院です。僧寺と尼寺の二院制がとられましたが、当時各地で病気が流行し、不作が続くなかで、仏の力にすがって平安な国家にしていきたいという願いがこめられていました。
 豊前国では、豊津に国府がおかれていたことから、この錦原台地の東端に寺地が選定され、国府の役人であった国司が中心になって建立が進められました。記録からの推定では、完成までに約十五ほどの年月を費やしたことがうかがえます。ここは僧寺の跡ですが、尼寺はここから眞東に200mほど離れた丘の上に建てられていました。
僧寺の伽藍は南門・中門・塔・金堂・講堂・鐘楼・回廊などが南を正面にして、方二町(216m四方)の寺域の中に配置されました。尼寺はふつう塔が省略され、規模もやや縮小された形といいます。
 国立寺院であるため、両院とも国家からは手厚い保護を受け、僧尼の生活や寺の維持には田や封戸が与えられました。そして当時の先端技術の粋を結集して造営された国分寺は、建物の先進性はもとより仏教の教義を説き広める意味から、その地方の文化の中心的な役割も果たしました。
 しかしこの国分寺も、奈良時代後半ごろからの律令政治の崩潰や新興の天台・真言密教におされて存在意義もうすめられ、早くも衰退の一途をたどり始めました。このような情勢にあっても豊前国分寺はどうにかその命脈をち続けていたらしく、天正年問(1673年〜1591年)に大友宗麟の兵火にあって、すべての伽藍が焼失したと伝えられています。
 江戸時代になって僧の英賢・円慶によって復興が始まり、さらに尊応・応忍・等汰に引き継がれて、元禄年間を除く主要な建物がほぼ完
成したと伝えます。
 明治時代に宮本孝梁師は塔の建立を発願され、多くの人々の寄進を得て、明治二十八年(1895年)に三重塔々の完成をみました。塔は層塔と多宝塔を折衷した様式をもち、昭和60年から2年にわたる解体修理で再び明治の建立当時の姿によみがえりました。
 寺域は昭和51年に国の史跡に指定されましたが、豊津町が史跡公園として整備する際の発掘調査では、創建当時の行動跡をはじめ軒丸瓦・軒平瓦・陶磁器片などが出土しています。」

みやこ町

豊前国分寺講堂跡
「昭和61年度の発掘調査で、南北幅13.0m以上、東西長約26.7mの平面規模で、北面に幅約3.5mの傾斜面(階段)をもつ地山を削り出した基壇が確認されました。また周辺から瓦や博、礎石が多数出土し、この基壇が奈良時代の七堂伽藍のうち講堂跡と考えられます。なお金堂の位置は現在の本堂あたりと推定されます。」

豊前国分寺三重塔
福岡県重要文化財


十三仏
「一般的に十三仏は、室町時代中期以降に成立したもので、亡くなった人の供養に用いられます。
 国分寺の十三仏は造仏の時期は不明ですが、当初東側の参道付近にありました。その後、昭和63年の三重塔解体修理の後にここに移されました。」

みやこ町教育委員会


石像群