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若八幡神社参道橋
2007.08.18
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田川市大字夏吉
橋長:2.3m
橋幅:4.0m
桁10列
単径間円弧桁橋
架設:安政5年(1858)
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若八幡神社由緒
「人皇第12代景行天皇の熊襲征伐に際し天皇を周防の佐波(今の防府市)迄出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。“榊の枝に八握剣八咫鏡、八尺瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたてゝ参向した”と日本書記には記されています。年代は下がって姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を授けんと軍勢を催してかけつける途中で妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て篭もったところを追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐社横の洞窟との説もある)それ以来夏羽焼−夏焼と此の村が呼ばれる事になったのです。後に、夏羽の亡霊の祟りを鎮める為に宇佐より八幡宮が勧請されましたが(光仁年中1173〜4年前)今の大宮司屋敷から現在地に鎮座されたのは慶長13年2月3日(375年前)の事です。現在は仁徳天皇(応神天皇の若宮)を合わせ祭る為に若八幡ととなえますが、これは平清盛が香春岳鬼ケ城の守護神として平家の氏神、仁徳天皇の神霊を京都の平野神社より香春岳の中腹に祭り、その後いかなる理由でか当社に鎮座されたのです。江戸時代小笠原藩祖忠真公巡国の折り当社に参詣され困窮のどん底にあった村民を救うため色々の施政をされると共に、不吉な夏焼の村名を夏吉と、改称されました。
村民は以後の繁栄を感謝し、公の逝去の後若八幡宮の相殿に公の神霊をお祭りして来ましたが、享和元年(182年前)朝廷に願い出て、輝徳霊神の神号と霊璽とを頂いたのです。当社の神紋が、小笠原家の家紋と同じ三階菱であるのは以上の理由によります。」
宮司 原田丈路 謹識
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一の鳥居奥
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正面
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側面
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下部
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神社側から |