横山三社宮由緒
「日本書紀(奈良時代)に、神功皇后新羅の航路を知るため背振山に登られ、小山田邑(脇山)に武内宿祢に命じて斎宮を造らせ、天神地祇を祭り自ら神主となり神教を祈祷七日七夜の未神が皇后に神教があった。
皇后は神教に従って神々の御援助で新羅王は無血征服、天地のある限り貢すると約束をした。
皇后は新羅王城の門前に持っていられた槍を印に立て、帰国されて二〇一年都に帰られ、二〇二年に斎宮の跡(主基斎田勅定の地)に神社を建立された。この偉大な神社を、背振神社という。
横山郷八ヶ村百七十町を授けられ、正六位上貞観元年(859年)熊野の比丘尼、熊野三神の分霊を祀られた。
貞観十二年(870年)従五位下に昇授、神功皇后筑前に建立七柱の随一であった。
長い年月の間には、盛衰があって、天授元年(1375年)背振戦争の兵火等で焼失、慶長四年(1599年)小早川秀秋の時、神領もことごとく没収、神社は消滅状態となった。 現産子中で安永八年(1779年)己亥現神殿を新築、現地に遷座、社名を横山三社宮と改名された。
昭和三年(1928年)主基斎田守護神大鏡福岡県から奉納。」
氏子総代会 |